2015年4月22日水曜日

陝西的歴史 (秦)

陝西省の省都、西安。
その昔は長安という呼び名でしたが、長安が出来る前にその近郊には別の都市がありました。
最初は西周の都としての豊邑。
その後、周が商を滅ぼして後に、都に定めた対岸の街、鎬京。
鎬京はその後、周の内乱により破壊され周王は都をそれまでの副都だった洛邑に移します。(今の洛陽)
秦の時代、鎬京だった場所の西に咸陽が作られ秦の都として栄えました。
秦が滅ぼされると、漢の高祖劉邦は咸陽の東に長安を建設し、都としたのです。



さてその秦。



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(2015.4.11 秦の版図 byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO1600 1/60)



周は諸侯の力が強く、周王の統制力は長く続きませんでした。本来ならば王を名乗ってよいのは周の君主だけでしたが、周代の後半になると諸侯は自ら王を名乗り始めます。この時代を戦国時代と呼びます。



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(2015.4.11 鳥蓋瓠壷 (戦国) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)



戦国時代の壷です。デザインが凝っていますね。





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(2015.4.11 青銅竜 (戦国 秦 紀元前475年~221年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO1600 1/60)



この青銅製の竜も、どこかで見たぞ。。。そうだm大宰府で見た気がします。
ようやく思い出しました。2年前に国博で展示していた、「中国 王朝の至宝」展で見たんです。
キーワードは「三星堆」

またこんなところで会えるなんてねえ(嬉♪



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(2015.4.11 半両銭 (秦代 紀元前221年~207年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO2000 1/60)



戦国時代に終止符を打ち、長い分裂の時代に統一の風を吹き込んだのは西の後進国、秦でした。後進国ではありましたが、であるがゆえに新しい考え方に柔軟で、合理的で、国内外にとらわれない有為の人材の登用に積極的でした。やがて、法家思想による合理的な国づくりを行い瞬く間に強大な国へと成長します。
秦では始皇帝が有名ですが、彼の曽祖父の「昭襄王」、昭襄王の祖父の「孝公」が秦という国を作り上げていったキーパーソンです。
始皇帝は統一後、法家の家臣李斯と共に、さまざまな改革を進めます。
上の写真は貨幣の統一をめざし作られた半両銭です。それまで戦国時代の各国はおのおのが独自の通貨を持っていたのです。





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(2015.4.11 文字の統一 (秦代 紀元前221年~207年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 3.5 ISO3200 1/30)



統一したのは貨幣だけではなく、度量衡(長さ・重さ・容積)、馬車の車幅(ワダチ幅)など多岐にわたります。そして上の写真は文字フォントの統一。いわゆる「篆書体」に統一させたのです。
馬と言う文字は、秦が統一しなかったら、全く違う文字になっていたかもしれません。



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(2015.4.11 杜虎符 (秦代 紀元前337年~325年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO800 1/60)



上の写真は「虎符」という兵権の印です。杜という県で使われていたので「杜虎符」
始皇帝は中央集権をすすめ、全国に郡に分け、さらに郡の下に県を置き、地方支配の細分化を図りました。地方における兵の分担は県単位で行われ、上のような青銅製の割符によって兵権を制御しました。
これを使用するときは左右に分けて、片方を王が持ち、片方を将軍が持つようにして、一定の人数以上の兵を動かすときは、王の持つ割符と将軍が持つ割符を合わせる必要があったのです。



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(2015.4.11 杜虎符 (戦国 秦 紀元前337年~325年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO800 1/60 (拡大))



彫られた文字はこうです。
「兵甲之符、右在君、左在杜、凡興士被甲、用兵五十人以上、必会君符、乃敢行之、幡墜之事、難母会符、行殿也」



(この虎符(兵符)は右半分を君(王)が、左半分を県が各々保持する。およそ発兵する際、兵士数が五十人以上に及ぶ場合は必ず君(王)符と符合させ、然る後に発兵させなければならない。但し、敵の来攻があるような緊急事態の場合は、君(王)符と符合させないでも発兵してよい、という内容)

























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