2017年3月14日火曜日
宇土古城 その2
(2017.3.5 宇土古城 by α6000 SEL24F18Z 24mm F 9.0 ISO100 1/100)
宇土為光の生年は不明ですが、長兄の為邦(永享2年生)が16歳で家督を継いでいることから少なくとも永享年間に生まれていると考えられます。
父持朝が彼を宇土家に送り込んだのは菊池総領家の勢力拡大のためでしたが、為光はこの意に沿うことなく菊池総領家に楯突きます。
初めは文明16年(1484年)、これまた野心の塊とも言っていい人吉の相良為続と結びつき、長兄為邦の後を継いだ甥の重朝に対して叛旗をあげます。このときはまだ長兄為邦は出家隠居の身ながら存命です。この反乱の2年後に58歳で亡くなります。
仮に為光が永享年間に生まれているとしたら歳は40から50歳です。
歳が若ければ、野心たくましい相良為続に唆されたと想像されますが、為続はこの時38歳。
為光のほうが年長であることは間違いなく、この文明年間の宇土の乱は為光自身が画策したと思われます。
宇土為光自身の画策説の根拠は他にもあります。
実はこの年の3月に相良為続は相良氏念願の古麓城(八代)を、名和氏から奪います。
この頃の名和氏当主は名和顕忠と言いますが、この年の年齢は33歳くらい。(生年が享徳元年(1452年)となっています。八代を追われた彼は益城矢部の阿蘇氏の元に逃げ込みます。
阿蘇氏と宇土氏はかなり古い昔から、郡浦と呼ばれる宇土半島の領地を巡って争いがありました。郡浦はもともとは阿蘇神社の社領だったのですが、南北朝の時代に宇土氏が押領して以降、争いの種になっていたのです。
ついでに言うと、この頃の阿蘇氏は一枚岩ではなく、南北朝時代のしこりが残っていて、南朝系(阿蘇郡支配)の阿蘇惟歳、北朝系(益城郡支配)の阿蘇惟忠がおり、さかのぼること30年前に惟忠が惟歳を養子にすることで両家の統合が成った、はずでした。ですが、文明16年頃には、惟忠は実子惟憲と組んで養子惟歳と対立しています。
惟忠、御歳70。老害といっては失礼ですが、そういった類の匂いを感じます。
この頃の阿蘇氏の事実上の実力者といえば益城郡矢部の阿蘇惟忠に間違いないので、八代から逃げてきた名和顕忠の逃げ込み先は地理的にも近い矢部阿蘇氏になるでしょう。
名和顕忠は逃亡先の阿蘇氏の元から、肥後守護である菊池重朝に相良氏による八代強奪の非を訴えたはずです。
阿蘇惟忠はこの時、名和氏と同じような境遇であると、郡浦の件を菊池重朝に訴えたのかもしれません。
相良氏による、八代の強奪。
宇土氏による、郡浦の押領。
肥後守護職の菊池重朝としてはこれらの「無道」を正す役目がありました。
それに反発する相良宇土連合という図式。
この少し前には都で応仁の乱が起こっており、将軍足利義政は政治への熱意を失って東山に銀閣寺を造営し始めた頃です。各地に戦乱が広がりつつある時代でした。
一方で、この年の2年前、菊池氏の本拠地である隈府(今の菊池市)で、重朝は「連歌一万句の会」を開いています。
宇土為光にとって甥である重朝は文弱の徒、と映っていたのではないでしょうか。
本来は菊池総領家の勢力拡大のための宇土家であり為光であるはずでした。その宇土家が栄えることは菊池家のためにもなるはずなのに、肥後守護の権威を嵩に阿蘇氏の言い分だけ聞いて身内の宇土家に向かって郡浦を返上せよとは何事か! 為光は憤りを感じ、先制攻撃あるのみと、相良氏と結んで菊池総領家への反乱を企てたのではないか、というのがもう一つの理由です。
ひょっとすると、文弱の重朝に菊池総領家は任せられぬ、我こそが菊池総領家を継ぐに足る、と言う野望が少しはあったのだろうと思います。
そして4月、宇土為光挙兵。
益城郡木原城下の赤熊(後に明熊)で菊池軍と宇土軍が戦います。(赤熊の戦い)
戦いの詳細は分かりませんが、結果は宇土軍の敗北。
宇土古城から見ると木原城のあった山は目と鼻の先(今は熊本市南区富合町木原字城山)。
(2017.3.5 宇土古城から木原城の城山の眺め by α6000 SEL24F18Z 24mm F 5.6 ISO100 1/200)
今は明熊(みんくま)というバス停が、上の写真の山向こうにある木原城のすぐ近くにあります。
敗れた宇土為光は南の相良領へと逃げ込んだそうです。
さて、この乱の後、宇土城は誰の手に渡ったんでしょうか。調べてはいるのですが、まだ不明です。
しかし、この翌年に行われたある戦いで菊池軍は大敗し、為光は宇土城を奪回するのです。
(2017.3.5 宇土古城から南側の眺め by α6000 SEL24F18Z 24mm F 9.0 ISO100 1/100)
(つづく。)
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