と言っても、史記における、彼の既述は、クライマックスとなるのは、彼の死に様を述べた
以下の部分です
史記田膽列伝より
劉邦中国全土を支配した後、斉=今の山東半島辺りがなかなか鎮圧できなかった。特に大きな勢力があった訳ではなかつたが、住民が草の根の活動で田横を支えていたからだ
そんな田横に劉邦は一目会いたいと考えた。
何度か招請の使者を送り、ようやく、田横は、劉邦がいる都の洛陽に向かう。
且陛下所以欲見我者不過欲一見吾面貌耳
今陛下在洛陽今斬吾頭馳三十里閒
今陛下在洛陽今斬吾頭馳三十里閒
形容尚未能敗猶可觀也
といって、自ら首をはねる。以下続く。
宮城谷さんの香乱記を読みましたが、最後の10ページは不覚にも入院中のベッドの上で泣きっぱなしでした。溢れる涙が止まらない。止まらない。
その原文にあたる、史記の部分が、ここに挙げたテキストになります。
宮城谷さんの表現では、謁見のシーンはこのようになっています。
首だけの姿になった田横を引見した劉邦は、
香乱記では、
劉邦には生きている田横の容姿をみるよりも、首だけの田横を見たほうが、田横の全象がより明確にわかった。突然、劉邦は両眼に涙をためて、以下史記原文の引用に続く。
高帝曰嗟乎有以也夫起自布衣
漢高帝劉邦曰く、「ああ、ゆえ有るなりかな。無位無冠より起(お)こし、
兄弟三人更王豈不賢乎哉
兄弟三人はかわるがわる王となり、どうして賢者ではないだろうかな(賢者である)」と、
為之流涕而拜其二客為都尉
この為(ため)に涙を流した。しこうしてその(田横の)二人の食客(賓客)に官をさずけて漢都尉と為し、
發卒二千人以王者禮葬田橫
歩兵二千人を発して、王者の礼(れい)を以って田横を葬(ほうむ)った
『楽毅』以来の衝撃と感動がありました。
1日経ったが、読後の空虚感感が尋常じゃない
何故これ程多くの殉死者が出たか、劉邦が言うように、田横の兄弟は、士を得ることが立派にできていた、そうしうる人物だった、香乱記のきっかけはこの辺りの既述なのでしょうね
今見返しても非常にショッキングなシーンですが、、何故見落していたんだろう?
0 件のコメント :
コメントを投稿