さて、このブログはタイマーで自動でUPしています。
1月6日以前はリアルタイムではありません。
それまでは、九州から関東に小旅しています。
なので、いつも枕に書いている、熊本のお天気状況は記録できません。
また、ちょうど、日本は市場がお休み。NYや世界の市場は始まっていますが、そういった類の記録もしばしお休みでござる。
さて12月になってすぐに借りた剣客商売全集の別巻の事を載せるのも、延び延びにしていました。すこしづつ自動で挙げていきます。
例によって、礼の如く、感想と言うより筋を追いつつ、コメントをさしはさむ形式です。なので、完全にネタバレです。ご注意ください。
自動で挙げますが、多分これが上がるタイミングが元旦になると思います。
明けましておめでとうございます。万事如意
2019年猪年(Zhu nien)
黒白
500ページに渡る長編です。剣客商売はそのほとんどが100~200ページ程度の短編で構成されています。
この黒白は、全集では別巻一冊にまとめてありますが、調べてみると、単行本では上下と2冊に分かれています。
三つ目の章になります。
ー秋山小兵衛ー
ここでようやく、小兵衛が本格的に登場。
むしろ、秋山小兵衛の若い時の詳しい話が、この章で語られます。
波切が、秋山小兵衛と互角の腕前を持った剣客であり、ある御前試合で、小兵衛が勝つのですが、見ていたものも、試合の成り行きがどう展開したのかわからない、と言う感じで、小兵衛自身も買った気がしないという試合で、八郎が、小兵衛に1年後の真剣勝負を申し込み、小兵衛は迷いなくこれを受けます。
これまでも、本編で語られた、小兵衛の来歴、特に辻道場の来歴が多く語られています。
さらにこの章では、嶋岡礼蔵、内山文太、神谷新左衛門など、本編で登場してきた、小兵衛の知り合いも登場します。
辻道場の来歴は恐らく以前本編で読んだことがあったのですが、
「無外流辻道場の祖は、辻月丹といい、辻平内という剣客。近江の国の出身。ともかく風変りな人物だったらしい。無欲恬淡の奇人と評する人もいる。
どうしても門人から金品を受けとらなかった。ためいつも貧しく。その当時は道場は小石川表町にあったそうな。そのころには20名ほどしか門人がいなかったが、元禄元年1688年の春。
越前大野の藩士、杉田兄弟が高田馬場で親のかたき討ちをした際に、助太刀して首尾よく仇討ちをさせた。ことがきっかけになって、有名になって門弟が増えたらしく、やむなく平内は麹町に道場を移した」
とあります。
兵内の後継者が、この杉田兄弟の兄の、杉田庄左衛門で、辻喜摩太と名前を改めた。恩師と同様、彼は妻帯せず子がなく、高弟の三沢千代太郎を後継に定めて間もなく急死してしまったとあります。
この千代太郎が、小兵衛の師、辻平右衛門です。
小兵衛の師、辻平右衛門は大原の里に隠居することを決めた際に、道場を小兵衛に譲ることを考えていました。
先述のように平右衛門自身、先代の師、辻起摩太から同上を譲られた。と言う経緯もありました。
しかし、剣の道は即ち人の道、という辻道場の教えをしっかり受け継ぐ、小兵衛は自分が道場を受け継ぐ人格に非ず、といって辞退。
小兵衛が目を付けていたのは、嶋岡礼蔵でしたが、嶋岡は師についていき、大原の里で師匠の世話をしたい、という思いをもっていました。
この章では、小兵衛とお貞の関係、また、嶋岡礼蔵が、お貞を熱烈に慕っていたことが、師について道場をさる間際、普段は寡黙で感情を出さない嶋岡が、顔中涙に濡らしながら小兵衛にほとばしるように「お貞のことを幸せにしてくれ頼む、頼むぞ」と言った嶋岡の姿と共に小兵衛には驚きを持って知らされた事が描かれています。
実は、小兵衛は波切八郎との真剣勝負の立会いを嶋岡礼蔵に頼むつもりでありました。
立ち合いは、内山文太に依頼し、お貞への説明もたのみ、さらに、小兵衛は道場を出奔することも密かに文太に明かします。そのほうが道場が自然と消滅すると思ったのでしょう。
文太もそうですが、神谷新左エ門も、辻道場を秋山道場にするべき、と考えていたのですが、小兵衛はそのことは固く拒否します。
小兵衛は生まれの甲斐の国の兄の家に出ていきます。小兵衛が江戸を去るまでが、この章。
並行して、波切八郎とお信の関係も並行して描かれています。
お信に恋する八郎は、小兵衛と互角の凄腕の剣客と思えないほどのナイーブさです。
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