週末は雨でした。
しばらくこの雨は続くようです。
天気図を見ると秋雨?っぽい前線が西日本を中心に横たわっています。
前線の西の端っこは東シナ海をわたって広州、香港あたりに在ります。
少し前になるのですが、アメリカのITベンチャー関連ニュースで面白い記事がありました。
アメリカの10代の若者に人気のスマホアプリ「スナップチャット」
これ、送った写真が自動的に消去される、というスパイ大作戦(今で言う、ミッションインポッシブル)の指令のような機能をもつアプリです。
まあ、最近では送ったり公開した写真でとんでもないことが起きる世の中ですからねえ。
電気信号に変換されて送った写真はいつまでも「過去のもの」とならないのがややこしいのですが、この「スナップチャット」は電気信号の記録(写真)を自動的に消去してくれるので後は「記憶」しか残らないというわけ。
エフェメラルメッセージ、とも呼ばれています。
このスナップチャットを立ち上げた人はエヴァン・シュピーゲル君とボビー・マーフィー君という若者。たしか今年25歳くらい。
いまや億万長者です。
さて、このアイデアに関心をもったのが、フェイスブックのザッカーバーグ君。かれもまだ若く今年31歳。
ザッカーバーグ君がこのアイデアに「30億ドルで買うよ」と買収を持ちかけました。
2012年末にザッカーバーグ君からシュピーゲル君に「知り合いになりたいからメンローパークに来てよ」
メンローパークはカリフォルニアにあるフェイスブックの本拠地です。
当時20代で世界の富豪入りしたIT界の寵児と言われたザッカーバーグ君からこんなメールが来たら普通は舞い上がるところですが、シュピーゲル君はさらにその上を行ってました。
「ぜひ会いたいね。そっちが来るならだけど」
当時、スナップチャットは立ち上げてから2年目で、その後どうなっていくのかなんて誰にも分かりません。ただ、人気アプリの上位にありました。
その頃、フェイスブック側も似たような機能を開発(コピー?)していて、その新機能の名前は「ポーク」でした。
ザッカーバーグ君はその新機能についてシュピーゲル君に説明すべく上のようなやり取りがあったのですが、結局ザッカーバーグ君がシュピーゲル君に会いに行ったらしい。
「基本的には、『おまえらを潰してやる』って話だったよ」と、シュピーゲル君。そして、シュピーゲルとマーフィーはオフィスに戻るとすぐに、当時6 人いた社員に1 冊ずつを配るべく、孫子の兵法書を注文したといいます。
スナップチャットは、フェイスブックの存在を脅かす唯一無二の存在と見られています。
フォーブスの推計では、現在、スナップチャットのユーザーは約5,000 万人に上る。年齢の平均値は20才以下です。
一方のフェイスブックは、ティーンの利用が減ってきており、ユーザーの平均年齢は40歳に近い。つまりおっさんやおばさんが安心して利用する成熟したSNSともいえます。
ただ、若者がいないということは将来の成長も見込めませんね。
ザッカーバーグもそんな現状をよく理解したうえで、勝負をしかけたのかもしれません。
ポークはその後公開されるのですが、結果的にはスナップチャットの敵ではなかったようです。
そして、ザッカーバーグ君は白旗を揚げ、一昨年秋に「30億ドルで買収する」という提案をしてきたのです。
まだ、立ち上げ2年目で収益を上げておらず、どうやって儲けるかのモデルすらはっきりしていないアプリに対して、この申し出は破格といえました。
ですが、シュピーゲル君はさらにその上を行ってました
この提案を蹴ったのです。
シュピーゲル君曰く、
「短期的な利益に満足して、それを売ってしまったら、つまらないと思うんだよね」
今年の春、中国のアリババから投資を受けて、スナップチャットの評価額は150億ドルになったというニュースがありました。
ただ、スナップチャットはいまだに収益を上げておらず、昨年2014年は1億3000万ドル近い純損失をしています。
そもそも機能がすぐ消えてしまう、というものだけに広告効果が見通せないこと、利用者の多くが10代であることなどが原因と見られています。
さてさて、スナップチャットは今後どうなっていくのでしょうかね。
こんな若者の、ドラマティックな物語が起こるアメリカという国の若々しさをうらやましく思います。
(元記事はフォーブスジャパンの「30億ドル買収拒否! スナップチャット奮闘劇」です。)
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2015年8月30日日曜日
2015年8月27日木曜日
国東半島を巡る旅(2015夏) その4
吉弘統幸が活躍する石垣原の戦い篇です。
2015年夏の国東半島を巡る旅ブログも、いよいよこの回が最終回です。
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
国東半島を巡る旅(2015夏) その2
国東半島を巡る旅(2015夏) その3
最後の回で今更ですが、今回の旅の概要です。
初日、熊本を出て国東に向かう途中、開館して間もない大分県立美術館(OPAM)に寄りました。
翌日(8/1)から進撃の巨人展とか「描く」マンガ展が開催されるため、その準備中といった、いそいそとした雰囲気でした。
進撃の巨人の作者は大分県出身らしいです。
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM1 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM2 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM3 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM4 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)
吉弘氏直を偲んで山香町大村山麓の勢場が原の古戦場や立石峠を巡った後、国東半島側に向かい、有名な磨崖仏と国宝の寺を巡りました。
ちなみに日本のなかで大分県は磨崖仏が多い県です。中でも国東半島には多くの磨崖仏があります。
熊野磨崖仏
(2015.7.31 鬼が一夜で築いた石段を登る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1000 1/60)
拝観料を払う受付で「杖」を勧められます。
登りではあまり必要ないのですが。
(2015.7.31 不動明王像 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
(2015.7.31 如来形像 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)
どちらも平安時代後期の作
(2015.7.31 登ってきた石段は帰りに下る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO200 1/60)
受付で勧められた「杖」。下りで威力絶大!
(2015.7.31 元宮磨崖仏 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)
室町時代の作
九州で最古の木造建築物の阿弥陀堂がある富貴寺。
この阿弥陀堂は国宝です。
(2015.7.31 富貴寺 門 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/60)
(2015.7.31 夏の富貴寺 国宝阿弥陀堂 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/60)
巡った後に泊まった宿は豊後高田市香ヶ地町の海沿いにある宿。
宿の静かな雰囲気が心地よく、夕食、朝食が美味しかったです。
(2015.7.31 民宿しおじ byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)
(2015.7.31 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/400)
これに追加で鳥天と茶碗蒸しが付きます。
(2015.7.31 マテ貝 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/160)
国東のマテ貝は絶品でした。
(2015.8.1 朝食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/160)
二日目、午前中に吉弘一族の地である都甲を回りました。
その後、両子寺を巡り、午後は別府市にある石垣原の古戦場巡りをしました。
吉弘統幸の観海寺の陣を車で回った後、大友義統の本陣があった立石付近から七つ石、吉弘神社を経て、黒田軍の本陣があった実相寺山付近を巡って立石に戻るまでを徒歩で歩き回りました。
車で移動しているよりも歩いているほうが長かったような一日。
かつての六郷満山中山本寺である両子寺(ふたごじ)
(2015.8.1 両子寺 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
両子山中腹にある天台宗の名刹718年の創建
(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
寺、なのに、神宮霊場、とはこれいかに。
(2015.8.1 両子寺 仁王像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO320 1/60)
江戸時代後期の作
歩きつかれた二日目の夜は別府の温泉に浸かって癒し、翌日帰途につきました。
二泊三日の旅という形態はなかなか新鮮でした。ゆっくり出来てよかったです。(恐らく今までなら二日目夜に強行軍して帰宅してた。)
(2015.8.1 別府の宿 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
(2015.8.1 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1600 1/160)
(2015.8.1 夕食のお品書き byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/160)
(2015.8.1 里流とむやむくんとBeer byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO2000 1/160)
さて閑話休題。
石垣原(いしがきばる)の戦いです。
大友宗麟の子、義統は愚鈍とかバカ殿といった言葉が人間の姿をしているような、そんな殿様でした。少なくとも私にとっては郷土の殿様ながら、一向に愛着がわきません。
豊臣秀吉による九州征伐の後に島津氏に蹂躙された自国領土のうち、豊後国一国だけはなんとか安堵されたものの、その後の朝鮮半島出兵(文禄の役)の際の失態で改易。
この失態とは、義統が受け持っていた地域の隣で戦いがあり、味方が大敗。この敗報が義統の陣に伝わり、近侍していた家臣の吉弘統幸は懸命の進言するもバカ殿・義統は聞く耳持たず、なんと一戦もせずに敵前逃亡。
その後の豊後国は分割され、秀吉恩顧の小粒な武将による支配が始まり、その後江戸時代を通じて分割されたまま統一支配されることはありませんでした。
大友家の家臣は、その土地に居ついて新たな支配体制に組み込まれるものや別の土地に移って別家に仕官するもの、さまざまで散り散りになりました。
バカ殿・義統は秀吉のもとで幽閉され、その嫡子・義乗は徳川家に預けられます。
秀吉死後、豊臣家と徳川家の対立が深まる中、解放された大友義統は豊臣方の誘いを受けます。
関が原に向かって全国の武将が集まる中、義統は豊後国別府の浜に上陸。近隣の旧臣に声をかけ兵を募ります。
吉弘統幸は主君の改易後、柳川城主で従兄弟の立花宗茂の元に身を寄せ2000石で仕えていましたが、義統の嫡子・義乗が家康に従って上杉討伐に従軍すると聞いて駆けつけようとします。
その途中で、このバカ殿に会うのでした。
統幸はここでもまたバカ殿に時流を説いて、家康の東軍につくべしと説得しますが、西軍から「豊後・豊前」の2カ国を約束されて浮かれていたバカ殿はここでも賢臣の声を無視します。
おそらく、主君の意思に背くとは不忠者よ、くらい言われたのかもしれません。
吉弘家の者にとって、不明とはいえ主君に「不忠」と言われるほど切ないことはなかったでしょう。
やむなく、このバカ殿に従うことになるのです。
恐らくこの時点で彼は、この後に待っている結果よりも吉弘家の魂と自らの武名のもとに突き進むことに義を感じ決断したのだと思います。
少なくとも、主家の大友家は世継ぎの義乗が東軍に属している以上、存続の可能性は高かったからです。
一方、九州の動きは黒田如水が中津で兵を挙げます。
彼は秀吉死後直後から既に徳川方(東軍)に付くことを選択しており、東軍の勢力が弱い九州でいかに効果的に(家康に対して)働きを見せることが出来るか、策をめぐらしていました。
それまで溜め込んでいた蓄財を投げ出し浪人を雇い瞬く間に9000人もの兵力を集めます。
別府に上陸した義統一行は旧大友家臣に声を掛け立石(別府市立石)に陣を張ります。
近隣の東軍勢力は杵築で細川家の飛び地でした。
義統勢力はまずこれを攻め落とすべく、杵築城に軍を派遣します。
城を守るのは細川家家臣でも名将の松井康之で、杵築城自体も天然の要害でした。
松井康之は非常に有能な武将で、陪臣の身ながら秀吉から石見半国18万石を与えられそうになったことすらあります。(もちろんこれは辞退しています)
さすがに満足な兵力もない大友側はこれを攻めあぐね、黒田軍来援の報を聞き立石に引き上げます。
黒田軍の先遣隊と杵築城の勢力が合流し、義統が陣を張る立石方面に軍を進めます。
大友軍本陣があった立石と、黒田・杵築の合同軍が陣を張った実相寺山の間の距離はわずかです。
いよいよ開戦の火蓋が切られたのは慶長5年9月13日。関が原の戦いの二日前のことでした。
(2015.8.1 石垣原合戦 吉弘統幸陣所跡 byNEX5N SEL24F18Z F9.0 ISO100 1/100)
(2015.8.1 吉弘統幸陣所跡から石垣原方面の眺め byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 石垣原(現:別府市別府市石垣西2丁目付近) byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)
緒戦では吉弘統幸が囮となって敵を立石付近におびき寄せ、待ち伏せていた兵と統幸自身により半包囲にして打ち破るなど大友勢が優勢でしたが、兵力の差はいかんともしがたく、午後には大友側は敗色濃厚になっていました。
その日の夕方には勝敗は決し、大友義統は自刃しようとしますが家臣に止められ降伏。
吉弘統幸は7度も出撃し奮戦しますが、戦いの中で力尽き、石垣原にある七つ石で自害。享年37。
(2015.8.1 吉弘統幸自害の地 七ツ石 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影
(吉弘統幸 辞世の句)
吉弘がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。
(黒田家譜より)
(2015.8.1 吉弘神社 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 吉弘神社 吉弘統幸の墓 中央の石板 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)
今回の旅で、世間では吉弘統幸のほうがメジャーということになっていて驚きました。
都甲の地でも吉弘統幸の幟がいっぱい。
地元の人に聞いたら、大河ドラマ(「軍師官兵衛」)の影響だそうです。
TVを見てないので全く知りませんでした。
都甲に廃校になった小学校の建物を利用した歴史博物館があります。
そこで、管理している方に現在の都甲のお話をお伺いできたのは予想外のうれしいひと時でした。
とても知りたいと思っていた氏直の、またその子鑑理や、孫の鎮信、高橋紹運、ひ孫の立花宗茂が生まれ育った都甲の同じ空気を吸い、同じ風景や空を眺めることが出来たことが何よりも良かったです。
都甲の風景は、恐らく秋の紅葉の時期になると一段と美しい気がします。
またいつか、秋の風景を楽しみに訪れたいと思います。
2015年夏の国東半島を巡る旅ブログも、いよいよこの回が最終回です。
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
国東半島を巡る旅(2015夏) その2
国東半島を巡る旅(2015夏) その3
最後の回で今更ですが、今回の旅の概要です。
初日、熊本を出て国東に向かう途中、開館して間もない大分県立美術館(OPAM)に寄りました。
翌日(8/1)から進撃の巨人展とか「描く」マンガ展が開催されるため、その準備中といった、いそいそとした雰囲気でした。
進撃の巨人の作者は大分県出身らしいです。
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM1 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM2 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM3 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
(2015.7.31 大分県立美術館OPAM4 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)
吉弘氏直を偲んで山香町大村山麓の勢場が原の古戦場や立石峠を巡った後、国東半島側に向かい、有名な磨崖仏と国宝の寺を巡りました。
ちなみに日本のなかで大分県は磨崖仏が多い県です。中でも国東半島には多くの磨崖仏があります。
熊野磨崖仏
(2015.7.31 鬼が一夜で築いた石段を登る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1000 1/60)
拝観料を払う受付で「杖」を勧められます。
登りではあまり必要ないのですが。
(2015.7.31 不動明王像 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
(2015.7.31 如来形像 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)
どちらも平安時代後期の作
(2015.7.31 登ってきた石段は帰りに下る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO200 1/60)
受付で勧められた「杖」。下りで威力絶大!
(2015.7.31 元宮磨崖仏 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)
室町時代の作
九州で最古の木造建築物の阿弥陀堂がある富貴寺。
この阿弥陀堂は国宝です。
(2015.7.31 富貴寺 門 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/60)
(2015.7.31 夏の富貴寺 国宝阿弥陀堂 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/60)
巡った後に泊まった宿は豊後高田市香ヶ地町の海沿いにある宿。
宿の静かな雰囲気が心地よく、夕食、朝食が美味しかったです。
(2015.7.31 民宿しおじ byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)
(2015.7.31 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/400)
これに追加で鳥天と茶碗蒸しが付きます。
(2015.7.31 マテ貝 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/160)
国東のマテ貝は絶品でした。
(2015.8.1 朝食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/160)
二日目、午前中に吉弘一族の地である都甲を回りました。
その後、両子寺を巡り、午後は別府市にある石垣原の古戦場巡りをしました。
吉弘統幸の観海寺の陣を車で回った後、大友義統の本陣があった立石付近から七つ石、吉弘神社を経て、黒田軍の本陣があった実相寺山付近を巡って立石に戻るまでを徒歩で歩き回りました。
車で移動しているよりも歩いているほうが長かったような一日。
かつての六郷満山中山本寺である両子寺(ふたごじ)
(2015.8.1 両子寺 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
両子山中腹にある天台宗の名刹718年の創建
(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
寺、なのに、神宮霊場、とはこれいかに。
(2015.8.1 両子寺 仁王像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO320 1/60)
江戸時代後期の作
歩きつかれた二日目の夜は別府の温泉に浸かって癒し、翌日帰途につきました。
二泊三日の旅という形態はなかなか新鮮でした。ゆっくり出来てよかったです。(恐らく今までなら二日目夜に強行軍して帰宅してた。)
(2015.8.1 別府の宿 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
(2015.8.1 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1600 1/160)
(2015.8.1 夕食のお品書き byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/160)
(2015.8.1 里流とむやむくんとBeer byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO2000 1/160)
さて閑話休題。
石垣原(いしがきばる)の戦いです。
大友宗麟の子、義統は愚鈍とかバカ殿といった言葉が人間の姿をしているような、そんな殿様でした。少なくとも私にとっては郷土の殿様ながら、一向に愛着がわきません。
豊臣秀吉による九州征伐の後に島津氏に蹂躙された自国領土のうち、豊後国一国だけはなんとか安堵されたものの、その後の朝鮮半島出兵(文禄の役)の際の失態で改易。
この失態とは、義統が受け持っていた地域の隣で戦いがあり、味方が大敗。この敗報が義統の陣に伝わり、近侍していた家臣の吉弘統幸は懸命の進言するもバカ殿・義統は聞く耳持たず、なんと一戦もせずに敵前逃亡。
その後の豊後国は分割され、秀吉恩顧の小粒な武将による支配が始まり、その後江戸時代を通じて分割されたまま統一支配されることはありませんでした。
大友家の家臣は、その土地に居ついて新たな支配体制に組み込まれるものや別の土地に移って別家に仕官するもの、さまざまで散り散りになりました。
バカ殿・義統は秀吉のもとで幽閉され、その嫡子・義乗は徳川家に預けられます。
秀吉死後、豊臣家と徳川家の対立が深まる中、解放された大友義統は豊臣方の誘いを受けます。
関が原に向かって全国の武将が集まる中、義統は豊後国別府の浜に上陸。近隣の旧臣に声をかけ兵を募ります。
吉弘統幸は主君の改易後、柳川城主で従兄弟の立花宗茂の元に身を寄せ2000石で仕えていましたが、義統の嫡子・義乗が家康に従って上杉討伐に従軍すると聞いて駆けつけようとします。
その途中で、このバカ殿に会うのでした。
統幸はここでもまたバカ殿に時流を説いて、家康の東軍につくべしと説得しますが、西軍から「豊後・豊前」の2カ国を約束されて浮かれていたバカ殿はここでも賢臣の声を無視します。
おそらく、主君の意思に背くとは不忠者よ、くらい言われたのかもしれません。
吉弘家の者にとって、不明とはいえ主君に「不忠」と言われるほど切ないことはなかったでしょう。
やむなく、このバカ殿に従うことになるのです。
恐らくこの時点で彼は、この後に待っている結果よりも吉弘家の魂と自らの武名のもとに突き進むことに義を感じ決断したのだと思います。
少なくとも、主家の大友家は世継ぎの義乗が東軍に属している以上、存続の可能性は高かったからです。
一方、九州の動きは黒田如水が中津で兵を挙げます。
彼は秀吉死後直後から既に徳川方(東軍)に付くことを選択しており、東軍の勢力が弱い九州でいかに効果的に(家康に対して)働きを見せることが出来るか、策をめぐらしていました。
それまで溜め込んでいた蓄財を投げ出し浪人を雇い瞬く間に9000人もの兵力を集めます。
別府に上陸した義統一行は旧大友家臣に声を掛け立石(別府市立石)に陣を張ります。
近隣の東軍勢力は杵築で細川家の飛び地でした。
義統勢力はまずこれを攻め落とすべく、杵築城に軍を派遣します。
城を守るのは細川家家臣でも名将の松井康之で、杵築城自体も天然の要害でした。
松井康之は非常に有能な武将で、陪臣の身ながら秀吉から石見半国18万石を与えられそうになったことすらあります。(もちろんこれは辞退しています)
さすがに満足な兵力もない大友側はこれを攻めあぐね、黒田軍来援の報を聞き立石に引き上げます。
黒田軍の先遣隊と杵築城の勢力が合流し、義統が陣を張る立石方面に軍を進めます。
大友軍本陣があった立石と、黒田・杵築の合同軍が陣を張った実相寺山の間の距離はわずかです。
いよいよ開戦の火蓋が切られたのは慶長5年9月13日。関が原の戦いの二日前のことでした。
(2015.8.1 石垣原合戦 吉弘統幸陣所跡 byNEX5N SEL24F18Z F9.0 ISO100 1/100)
(2015.8.1 吉弘統幸陣所跡から石垣原方面の眺め byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 石垣原(現:別府市別府市石垣西2丁目付近) byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)
緒戦では吉弘統幸が囮となって敵を立石付近におびき寄せ、待ち伏せていた兵と統幸自身により半包囲にして打ち破るなど大友勢が優勢でしたが、兵力の差はいかんともしがたく、午後には大友側は敗色濃厚になっていました。
その日の夕方には勝敗は決し、大友義統は自刃しようとしますが家臣に止められ降伏。
吉弘統幸は7度も出撃し奮戦しますが、戦いの中で力尽き、石垣原にある七つ石で自害。享年37。
(2015.8.1 吉弘統幸自害の地 七ツ石 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影
(吉弘統幸 辞世の句)
吉弘がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。
(黒田家譜より)
(2015.8.1 吉弘神社 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 吉弘神社 吉弘統幸の墓 中央の石板 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)
今回の旅で、世間では吉弘統幸のほうがメジャーということになっていて驚きました。
都甲の地でも吉弘統幸の幟がいっぱい。
地元の人に聞いたら、大河ドラマ(「軍師官兵衛」)の影響だそうです。
TVを見てないので全く知りませんでした。
都甲に廃校になった小学校の建物を利用した歴史博物館があります。
そこで、管理している方に現在の都甲のお話をお伺いできたのは予想外のうれしいひと時でした。
とても知りたいと思っていた氏直の、またその子鑑理や、孫の鎮信、高橋紹運、ひ孫の立花宗茂が生まれ育った都甲の同じ空気を吸い、同じ風景や空を眺めることが出来たことが何よりも良かったです。
都甲の風景は、恐らく秋の紅葉の時期になると一段と美しい気がします。
またいつか、秋の風景を楽しみに訪れたいと思います。
2015年8月25日火曜日
颱風「天鵝」(コーニー:15号)2015 その2
今朝、5時から7時まで、建物がすっ飛ぶんじゃないかとびくびくしながら思ったよ。
暴風が窓じゃなく建物自体を揺らしている振動で起床@今朝
10時半くらいになると、風は時折激しく吹いているものの収まりつつある模様。
会社は休もう。(うちの会社は、会社が安全に対する判断を放棄して個人に委ねております)
コンビニに行こうと思ったら、倒木のせいで2ヶ所通行止め。
すごく遠回りして、いつものエブリワンに到着したら、店のドアのガラスが割れてました。
途中のセブンも店内真っ暗だったから、どこかガラスが割れたんじゃないかと思われ。
信号もあらぬ方向を向いていたり、そもそも仕事放棄していたり、警察も何箇所かで交通整理してました。
大変な颱風だったんだなぁ、と改めて恐ろしさがぶり返しました
25日10時半のひまわり画像。
もう目はない。
25日11時のレーダー画像中国四国地方は今後も雨に注意。
10時の時点で、颱風は一旦海上に抜けた模様。まだ自宅付近は暴風圏内。
暴風が窓じゃなく建物自体を揺らしている振動で起床@今朝
10時半くらいになると、風は時折激しく吹いているものの収まりつつある模様。
会社は休もう。(うちの会社は、会社が安全に対する判断を放棄して個人に委ねております)
コンビニに行こうと思ったら、倒木のせいで2ヶ所通行止め。
すごく遠回りして、いつものエブリワンに到着したら、店のドアのガラスが割れてました。
途中のセブンも店内真っ暗だったから、どこかガラスが割れたんじゃないかと思われ。
信号もあらぬ方向を向いていたり、そもそも仕事放棄していたり、警察も何箇所かで交通整理してました。
大変な颱風だったんだなぁ、と改めて恐ろしさがぶり返しました
25日10時半のひまわり画像。
もう目はない。
25日11時のレーダー画像中国四国地方は今後も雨に注意。
10時の時点で、颱風は一旦海上に抜けた模様。まだ自宅付近は暴風圏内。
2015年8月24日月曜日
失敗すること
会社で後輩が「失敗ばかりです」と自嘲気味に言っていました。
それを聞いて、その返しに戸惑ってしまいました。
失敗と言うのは貴重な経験だと思うのだけど、そのことを言って失敗することが当たり前と思われても困るので、この自嘲に対する返し方が難しいと思ってしまったのです。
貴重な体験というのは、当人が未経験で挑んでみなくては分からないある事柄に対し、事前にさまざまな想定をして挑んだ「結果」としての「失敗した経験」のことを言います。
成功ばかりが期待する「結果」ではない、というのが私の持論です。
試行回数が10回のうち9回失敗しても、最後に成功すれば良いと思っています。
ただ、その9回の失敗を単なる失敗で終わらせるのはもったいないことです。
また同じことを9回繰り返すのもいただけないです。
何かを試し、思うような結果、期待した結果が得られなかったとします。
これを失敗と呼んで忘れてしまうのでは、挑戦する価値が半減してしまう気がします。
但し、漫然と試し、得られた成功結果のみを残し失敗結果は後に残さずでは、失敗する意味がまったくありません。無駄な失敗です。
一企業の会社員としては常に結果が求められ、その結果を元に査定され昇進やボーナスの額が決められる枠組みのなかに私たちはいます。
当然のことながら、結果有りきになりがちです。
が、その結果をより手軽に手に入れられるために失敗している、と言っても良いかもしれません。
そういった明日につながるような失敗にするために、挑戦する際にはいろんな想定と準備をしておくことが肝心です。
人は誰もが失敗やミスをします。
はじめから成功ばかりしている人はいません。
(加えて、そういう部分に寛容な企業というのが、伸びる会社だといいのですが。)
2015年8月23日日曜日
颱風「天鵝」(コーニー:15号)2015
熊本は週末いい天気でした。
今日は猛暑日ですねえ。洗濯物が速乾すぎる(w
気分転換に鞠智城までドライブしてきましたが、菊池の山手あたりもまだまだ暑いです。
いっぽう、南方から強い颱風「天鵝」が近づいています。
颱風の気圧数値から想像するよりも勢力は弱まっているようです。
現在石垣島の南西100km(8/23 15:00現在)
とはいえ、油断こそ大敵です。
(8月23日15:00のひまわり画像)
一旦なくなった目が再び見えてきました。いずれまた見えにくくなります。
(8月23日15:00現在の72時間予想)
時間を追うごとに西に進路を変えつつあるようです。
今日は猛暑日ですねえ。洗濯物が速乾すぎる(w
気分転換に鞠智城までドライブしてきましたが、菊池の山手あたりもまだまだ暑いです。
いっぽう、南方から強い颱風「天鵝」が近づいています。
颱風の気圧数値から想像するよりも勢力は弱まっているようです。
現在石垣島の南西100km(8/23 15:00現在)
とはいえ、油断こそ大敵です。
(8月23日15:00のひまわり画像)
一旦なくなった目が再び見えてきました。いずれまた見えにくくなります。
(8月23日15:00現在の72時間予想)
時間を追うごとに西に進路を変えつつあるようです。
2015年8月20日木曜日
国東半島を巡る旅(2015夏) その3
前回からのつづきです。
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
国東半島を巡る旅(2015夏) その2
都甲の金宗院にある吉弘一族の墓石。
(2015.8.1 金宗院の墓石、国東塔など byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO400 1/60)
吉弘氏家系図と大友家相関図
19歳で戦場の露となった吉弘氏直には息子がいました。この戦いのときには恐らくまだ乳飲み子で都甲の地にあったでしょう。
一族の後見を受けて成長しますが、しばらく吉弘氏は雌伏の時代を迎えます。
この乳飲み子が後に大友義鎮(宗麟)の代で、頭角をあらわし「大友の三老」の一人として重用される吉弘鑑理になります。
彼は名将と呼んでいい人物でした。
三老のほかの二人は、戦の鬼・戸次鑑連(べっきあきつら、後の立花道雪)、外交で辣腕を振るった臼杵鑑速(うすきあきはや)です。
鑑理は肥前竜造寺討伐の陣中で病を発し、翌年病没。
吉弘氏の根拠地、都甲の風景
(2015.8.1 都甲 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
吉弘一族の菩提寺、金宗院
(2015.8.1 金宗院入り口 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 金宗院全景 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
(2015.8.1 金宗院由緒 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
(2015.8.1 石造仁王像と羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)
(2015.8.1 羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)
(2015.8.1 石板レリーフになっている六地蔵尊 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO500 1/160)
鑑理の子、つまり氏直の孫、吉弘鎮信、鎮理兄弟も都甲の地で生まれ育ちます。
次男の鎮理は、後に筑前岩屋城で島津の大軍を相手に壮烈な玉砕戦を行い、大友家の意地を見せ島津を悩ませた高橋紹運その人です。
豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と呼ばれた立花宗茂も都甲の地で生まれ育ちますが、彼は高橋紹運の実子(立花道雪に乞われて養子となる)、つまり氏直の曾孫になります。
紹運の兄鎮信は耳川の戦いで島津相手に討ち死。
その子が統幸(宗茂の従兄弟)で、彼も氏直の曾孫になりますが、彼もまた曽祖父や祖父、叔父と同じく大友家に殉じる戦いに臨みます。
それは関が原の合戦時、九州豊後国での裏番組となった、石垣原の戦い、です。
石垣原古戦場碑
(2015.8.1 石垣原古戦場碑 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
吉弘家は大友家の庶流一支族に過ぎませんが、一族を挙げての鉄のような比類のない忠義魂はすさまじいものがあります。
私がその血に触れたのは、大宰府の奥にある岩屋城での高橋紹運の文字通り壮烈な戦いぶりを知ったときでした。
なぜ、この一見無駄のように思える篭城戦に命を懸けねばならなかったか。
調べると、彼の兄鎮信は耳川の戦いで壮烈な討ち死にをしていますが、毛利氏との戦い(多々良浜の戦い)での戦功を思えば父や弟に劣らずの名将ぶりです。
その戦いぶりは猛将と言ってよく、その姿は大村山を一目散に駆け下り大内の大軍をものともしなかった祖父氏直とかぶります。
大友方からすれば決して負け戦ではなく、結果的には勝ち(侵攻してきた大内軍を追い返した)を拾った勢場が原での、全身敵の矢で針鼠になりながらも戦った吉弘氏直の壮烈な戦いぶりが伝えられていたのではないでしょうか。
戦に勝ち負けはつき物で、どのように戦いに臨んだか、が重要。
とすれば、「勢場ヶ原の戦い」と言う伝説のようになった戦いで、ご先祖・氏直の勁烈な姿が、理想の武士像として彼の子から孫へ連綿と受け継がれて来たのではと思うのです。
高橋紹運の岩屋篭城は、衰退していく大友家の中にあって、結果ではなくその姿勢を重視するがゆえの当然の帰結だったのではないかと思い至ったのです。
吉弘家の忠勇の魂、その典型は耳川の鎮信であり、岩屋城の紹運であり、石垣原の統幸であったでしょう。そしてその原型が勢場の氏直にあったとすれば、私にとっては納得がいきます。
吉弘氏直という人を思うと、若さゆえの過ちによって惜しまれる死を迎えますが、仮に勢場で命を落とさなければ吉岡宗歓と並ぶ大友の柱石になったのではないでしょうか。
つづく
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
国東半島を巡る旅(2015夏) その2
都甲の金宗院にある吉弘一族の墓石。
(2015.8.1 金宗院の墓石、国東塔など byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO400 1/60)
吉弘氏家系図と大友家相関図
19歳で戦場の露となった吉弘氏直には息子がいました。この戦いのときには恐らくまだ乳飲み子で都甲の地にあったでしょう。
一族の後見を受けて成長しますが、しばらく吉弘氏は雌伏の時代を迎えます。
この乳飲み子が後に大友義鎮(宗麟)の代で、頭角をあらわし「大友の三老」の一人として重用される吉弘鑑理になります。
彼は名将と呼んでいい人物でした。
三老のほかの二人は、戦の鬼・戸次鑑連(べっきあきつら、後の立花道雪)、外交で辣腕を振るった臼杵鑑速(うすきあきはや)です。
鑑理は肥前竜造寺討伐の陣中で病を発し、翌年病没。
吉弘氏の根拠地、都甲の風景
(2015.8.1 都甲 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
吉弘一族の菩提寺、金宗院
(2015.8.1 金宗院入り口 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)
(2015.8.1 金宗院全景 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
(2015.8.1 金宗院由緒 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
(2015.8.1 石造仁王像と羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)
(2015.8.1 羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)
(2015.8.1 石板レリーフになっている六地蔵尊 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO500 1/160)
鑑理の子、つまり氏直の孫、吉弘鎮信、鎮理兄弟も都甲の地で生まれ育ちます。
次男の鎮理は、後に筑前岩屋城で島津の大軍を相手に壮烈な玉砕戦を行い、大友家の意地を見せ島津を悩ませた高橋紹運その人です。
豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と呼ばれた立花宗茂も都甲の地で生まれ育ちますが、彼は高橋紹運の実子(立花道雪に乞われて養子となる)、つまり氏直の曾孫になります。
紹運の兄鎮信は耳川の戦いで島津相手に討ち死。
その子が統幸(宗茂の従兄弟)で、彼も氏直の曾孫になりますが、彼もまた曽祖父や祖父、叔父と同じく大友家に殉じる戦いに臨みます。
それは関が原の合戦時、九州豊後国での裏番組となった、石垣原の戦い、です。
石垣原古戦場碑
(2015.8.1 石垣原古戦場碑 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
吉弘家は大友家の庶流一支族に過ぎませんが、一族を挙げての鉄のような比類のない忠義魂はすさまじいものがあります。
私がその血に触れたのは、大宰府の奥にある岩屋城での高橋紹運の文字通り壮烈な戦いぶりを知ったときでした。
なぜ、この一見無駄のように思える篭城戦に命を懸けねばならなかったか。
調べると、彼の兄鎮信は耳川の戦いで壮烈な討ち死にをしていますが、毛利氏との戦い(多々良浜の戦い)での戦功を思えば父や弟に劣らずの名将ぶりです。
その戦いぶりは猛将と言ってよく、その姿は大村山を一目散に駆け下り大内の大軍をものともしなかった祖父氏直とかぶります。
大友方からすれば決して負け戦ではなく、結果的には勝ち(侵攻してきた大内軍を追い返した)を拾った勢場が原での、全身敵の矢で針鼠になりながらも戦った吉弘氏直の壮烈な戦いぶりが伝えられていたのではないでしょうか。
戦に勝ち負けはつき物で、どのように戦いに臨んだか、が重要。
とすれば、「勢場ヶ原の戦い」と言う伝説のようになった戦いで、ご先祖・氏直の勁烈な姿が、理想の武士像として彼の子から孫へ連綿と受け継がれて来たのではと思うのです。
高橋紹運の岩屋篭城は、衰退していく大友家の中にあって、結果ではなくその姿勢を重視するがゆえの当然の帰結だったのではないかと思い至ったのです。
吉弘家の忠勇の魂、その典型は耳川の鎮信であり、岩屋城の紹運であり、石垣原の統幸であったでしょう。そしてその原型が勢場の氏直にあったとすれば、私にとっては納得がいきます。
吉弘氏直という人を思うと、若さゆえの過ちによって惜しまれる死を迎えますが、仮に勢場で命を落とさなければ吉岡宗歓と並ぶ大友の柱石になったのではないでしょうか。
つづく
2015年8月19日水曜日
真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由
一ヶ月前くらいのニュースですが、今度の大河ドラマ「真田丸」の配役が決まったそうです。
こんな感じ。
堺雅人 (真田信繁役)
大泉洋 (真田信幸(信之)役)
木村佳乃(松役)
草刈正雄(真田昌幸役)
高畑淳子(薫役)
草笛光子(とり役)
寺島進(出浦昌相役)
中原丈雄(高梨内記役)
藤井隆(佐助役)
平岳大(武田勝頼役)
段田安則(滝川一益役)
遠藤憲一(上杉景勝役)
吉田羊(小松姫役)
藤岡弘、(本多忠勝役)
高嶋政伸(北条氏政役)
斉藤由貴(阿茶局役)
近藤正臣(本多正信役)
内野聖陽(徳川家康役)
昔、NHKの真田太平記で真田源次郎信繁幸村を演じた草刈正雄が、丹波哲郎さんが演じていた昌幸役をするとはねえ。
因果だねえ。
非常に関心をそそる配役です。
藤岡弘の本多忠勝役も、これはかなりはまっているかもしれません。
一方で、景勝役の遠藤憲一、氏政役の高島政伸、家康役の内野聖陽は完全なミスキャストです。
景勝はとても寡黙で表情を変えない「静」の人ですが、内に秘めたものは養父謙信に似て心の熱い義の人です。
遠藤憲一が演技が下手とか、そういった内面を演じられないとはいいませんが、景勝役に似合いそうなのは内野のほうじゃないかなあ。
彼に景勝役をさせて、彼の元に幸村が人質に取られるほうがさまになっているように思います。
氏政は父氏康ほどの柔軟性や指導力、危機対応能力には欠けるものの、保守的で無難な跡継ぎ。
高島政伸ではやや迫力に不足しています。彼が演じる秀長はよかった。(大河ドラマ「秀吉」)
氏政というより、氏規くらいがいいのかも。
家康は言わずと知れていますが、今回の役回りは真田家にしてやられる一方の立場。
家康役を大泉洋が演じても面白かったのではないでしょうかねえ。とぼけた感じも「狸」っぽいし。
真田太平記では中村梅之介が演じてました。ここは息子の梅雀にさせてみるのも、昌幸役の草刈正雄との比較においても一興。
少なくとも家康の内側に燃えたぎる炎は生涯を通じてありませんが、内野聖陽は内側の熱い炎が見えすぎているので、キャラクターが真逆すぎますね
前述のように景勝役、もしくは後藤基次役か大谷吉継役をやらせたいところ。これまでの役柄から推測すると細川忠興がぴったり。
ここには出ていませんが、真田家や信繁幸村に関わる人物として、
石田三成(私的には三成役は堺雅人がぴったりなんですが)
大谷吉継(信繁の義父)
徳川秀忠(上田城で煮え湯を飲ませられる)
後藤基次(大坂城の戦友)
あたりを誰が演じるのでしょうか。気になりますねえ
・・・っていっても、うちにはテレビがないけん見れんのですが(苦笑
2015年8月18日火曜日
国東半島を巡る旅(2015夏) その2
前回
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
の続きです。
勢場ヶ原の戦い(天文3年(1534年)4月)
吉弘氏直の父、吉弘親信は大内氏との戦いで若くして死んでおり、氏直は16歳で家督を継ぎました。
3年後の天文3年(1534年)、大内氏の陶興房・杉長門守を大将とした軍勢3000騎は海を渡って駅館川河口付近に上陸、豊後の大友氏本拠地を伺います。
当時大友の当主だった義鑑(宗麟の父)は、都甲・筧城の若き当主吉弘氏直、大友家の家老職クラスを務めた寒田親景を父に持つ寒田親将の二人を大将に2800騎の兵を与え、大内氏の侵攻に当たらせます。
二人は、大内軍が宇佐から立石峠を越えてくる侵攻ルート(豊前街道)を取るものと考え、その侵攻ルート上に兵を配置。迎撃体制を整えます。
しかし、大内方の大将陶興房は、大内家臣の中でも戦功随一と呼ばれるほどで老練な武将でした。(この時58歳)
大友方の裏をかいて立石峠を通らず、間道を抜けて安心院方面から大村山(大牟礼山)の西側に出、山を迂回し南から山香方面の大友軍背後に出ようと、静かに進軍します。
立石峠(旧道ではない、国道10号線にある現在の立石峠)
(2015.8.1 立石峠 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
大村山(オオムレヤマ、大牟礼山 勢場ヶ原付近から撮影)
(2015.7.31 勢場ヶ原から眺めた大村山 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内軍が大村山の西、勢場ヶ原と呼ばれる丘陵地帯に現れたとき、大友方の本陣は大村山の山頂付近にありました。
まさかの場所に現れた大内軍に動揺する大友本陣でしたが、若い大将吉弘氏直は、裏をかかれた憤りと父のかたきでもある大内への恨みで恐らく頭に血が上ってしまったのでしょう。19歳という年を考えると遅い初陣だった可能性もあります。
大内軍は道なき道を進んできたため疲労も浅からじと考え、大内軍の1/3ほどしかいない本陣の軍勢でも十分当たりうると主張し、軽はずみにも大将自ら先頭に立って大内軍めがけて山を駆け下りて行きます。
共に大将格だった寒田親将もやむなく後をおい、大友本陣は若大将に引き込まれるように大内軍に攻撃を仕掛けることになるのでした。
勢場ヶ原
(といっても平坦な草原があるわけではなく、大村山麓の丘陵原野地帯)
(2015.7.31 勢場ヶ原付近 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内側の老大将陶興房は大友の狂ったかのような突撃にも、恐らくひるむことなく冷静に対処したでしょう。
戦いの初期に、同じく大将格の杉長門守が運悪く勢いに押されて大友方の勇将寒田親将に討ち取られますが、徐々に態勢を取り戻した大内側が数の優位を示して大友方を壊滅させます。
大友方の若き大将、吉弘氏直もこの戦いの中、針鼠のように矢を浴びて絶命。
敵の大将格の一人を討ち取った寒田親将も奮戦むなしく討ち取られてしまいます。
杉長門守の菩提を弔うため、長門国から運んできたというはなぐり石
(2015.7.31 杉長門守重信を弔う、はなぐり石 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
(2015.7.31 はなぐり石の説明板(切り取り) byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
その後、立石峠など大内軍想定侵攻ルートに配置していた大友方別働隊が時を置いて勢場ヶ原に到着。
本陣壊滅の報に戦意阻喪するどころか、むしろ弔い合戦として奮い立ち、休息中の大内軍に襲い掛かります。奇襲をかけるつもりで大友本陣を壊滅させた大内軍は、逆に奇襲を受ける形になり混乱。
大友側の奮戦に支えきれず壊走。大将の陶興房も負傷し、もと来た道を逃げ戻り海路周防へ撤退しました。
これが今旅の大きなテーマ、吉弘氏直と、彼が戦った大友・大内の最大最後の闘いと呼ばれる「勢場ヶ原の戦い」の顛末です。
つづく
国東半島を巡る旅(2015夏) その1
の続きです。
勢場ヶ原の戦い(天文3年(1534年)4月)
3年後の天文3年(1534年)、大内氏の陶興房・杉長門守を大将とした軍勢3000騎は海を渡って駅館川河口付近に上陸、豊後の大友氏本拠地を伺います。
当時大友の当主だった義鑑(宗麟の父)は、都甲・筧城の若き当主吉弘氏直、大友家の家老職クラスを務めた寒田親景を父に持つ寒田親将の二人を大将に2800騎の兵を与え、大内氏の侵攻に当たらせます。
二人は、大内軍が宇佐から立石峠を越えてくる侵攻ルート(豊前街道)を取るものと考え、その侵攻ルート上に兵を配置。迎撃体制を整えます。
しかし、大内方の大将陶興房は、大内家臣の中でも戦功随一と呼ばれるほどで老練な武将でした。(この時58歳)
大友方の裏をかいて立石峠を通らず、間道を抜けて安心院方面から大村山(大牟礼山)の西側に出、山を迂回し南から山香方面の大友軍背後に出ようと、静かに進軍します。
立石峠(旧道ではない、国道10号線にある現在の立石峠)
(2015.8.1 立石峠 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
大村山(オオムレヤマ、大牟礼山 勢場ヶ原付近から撮影)
(2015.7.31 勢場ヶ原から眺めた大村山 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内軍が大村山の西、勢場ヶ原と呼ばれる丘陵地帯に現れたとき、大友方の本陣は大村山の山頂付近にありました。
まさかの場所に現れた大内軍に動揺する大友本陣でしたが、若い大将吉弘氏直は、裏をかかれた憤りと父のかたきでもある大内への恨みで恐らく頭に血が上ってしまったのでしょう。19歳という年を考えると遅い初陣だった可能性もあります。
大内軍は道なき道を進んできたため疲労も浅からじと考え、大内軍の1/3ほどしかいない本陣の軍勢でも十分当たりうると主張し、軽はずみにも大将自ら先頭に立って大内軍めがけて山を駆け下りて行きます。
共に大将格だった寒田親将もやむなく後をおい、大友本陣は若大将に引き込まれるように大内軍に攻撃を仕掛けることになるのでした。
勢場ヶ原
(といっても平坦な草原があるわけではなく、大村山麓の丘陵原野地帯)
(2015.7.31 勢場ヶ原付近 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内側の老大将陶興房は大友の狂ったかのような突撃にも、恐らくひるむことなく冷静に対処したでしょう。
戦いの初期に、同じく大将格の杉長門守が運悪く勢いに押されて大友方の勇将寒田親将に討ち取られますが、徐々に態勢を取り戻した大内側が数の優位を示して大友方を壊滅させます。
大友方の若き大将、吉弘氏直もこの戦いの中、針鼠のように矢を浴びて絶命。
敵の大将格の一人を討ち取った寒田親将も奮戦むなしく討ち取られてしまいます。
杉長門守の菩提を弔うため、長門国から運んできたというはなぐり石
(2015.7.31 杉長門守重信を弔う、はなぐり石 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
(2015.7.31 はなぐり石の説明板(切り取り) byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
その後、立石峠など大内軍想定侵攻ルートに配置していた大友方別働隊が時を置いて勢場ヶ原に到着。
本陣壊滅の報に戦意阻喪するどころか、むしろ弔い合戦として奮い立ち、休息中の大内軍に襲い掛かります。奇襲をかけるつもりで大友本陣を壊滅させた大内軍は、逆に奇襲を受ける形になり混乱。
大友側の奮戦に支えきれず壊走。大将の陶興房も負傷し、もと来た道を逃げ戻り海路周防へ撤退しました。
これが今旅の大きなテーマ、吉弘氏直と、彼が戦った大友・大内の最大最後の闘いと呼ばれる「勢場ヶ原の戦い」の顛末です。
つづく
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