国東半島を巡る旅(2015夏) その1
の続きです。
勢場ヶ原の戦い(天文3年(1534年)4月)
3年後の天文3年(1534年)、大内氏の陶興房・杉長門守を大将とした軍勢3000騎は海を渡って駅館川河口付近に上陸、豊後の大友氏本拠地を伺います。
当時大友の当主だった義鑑(宗麟の父)は、都甲・筧城の若き当主吉弘氏直、大友家の家老職クラスを務めた寒田親景を父に持つ寒田親将の二人を大将に2800騎の兵を与え、大内氏の侵攻に当たらせます。
二人は、大内軍が宇佐から立石峠を越えてくる侵攻ルート(豊前街道)を取るものと考え、その侵攻ルート上に兵を配置。迎撃体制を整えます。
しかし、大内方の大将陶興房は、大内家臣の中でも戦功随一と呼ばれるほどで老練な武将でした。(この時58歳)
大友方の裏をかいて立石峠を通らず、間道を抜けて安心院方面から大村山(大牟礼山)の西側に出、山を迂回し南から山香方面の大友軍背後に出ようと、静かに進軍します。
立石峠(旧道ではない、国道10号線にある現在の立石峠)
(2015.8.1 立石峠 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
大村山(オオムレヤマ、大牟礼山 勢場ヶ原付近から撮影)
(2015.7.31 勢場ヶ原から眺めた大村山 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内軍が大村山の西、勢場ヶ原と呼ばれる丘陵地帯に現れたとき、大友方の本陣は大村山の山頂付近にありました。
まさかの場所に現れた大内軍に動揺する大友本陣でしたが、若い大将吉弘氏直は、裏をかかれた憤りと父のかたきでもある大内への恨みで恐らく頭に血が上ってしまったのでしょう。19歳という年を考えると遅い初陣だった可能性もあります。
大内軍は道なき道を進んできたため疲労も浅からじと考え、大内軍の1/3ほどしかいない本陣の軍勢でも十分当たりうると主張し、軽はずみにも大将自ら先頭に立って大内軍めがけて山を駆け下りて行きます。
共に大将格だった寒田親将もやむなく後をおい、大友本陣は若大将に引き込まれるように大内軍に攻撃を仕掛けることになるのでした。
勢場ヶ原
(といっても平坦な草原があるわけではなく、大村山麓の丘陵原野地帯)
(2015.7.31 勢場ヶ原付近 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
大内側の老大将陶興房は大友の狂ったかのような突撃にも、恐らくひるむことなく冷静に対処したでしょう。
戦いの初期に、同じく大将格の杉長門守が運悪く勢いに押されて大友方の勇将寒田親将に討ち取られますが、徐々に態勢を取り戻した大内側が数の優位を示して大友方を壊滅させます。
大友方の若き大将、吉弘氏直もこの戦いの中、針鼠のように矢を浴びて絶命。
敵の大将格の一人を討ち取った寒田親将も奮戦むなしく討ち取られてしまいます。
杉長門守の菩提を弔うため、長門国から運んできたというはなぐり石
(2015.7.31 杉長門守重信を弔う、はなぐり石 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
(2015.7.31 はなぐり石の説明板(切り取り) byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)
その後、立石峠など大内軍想定侵攻ルートに配置していた大友方別働隊が時を置いて勢場ヶ原に到着。
本陣壊滅の報に戦意阻喪するどころか、むしろ弔い合戦として奮い立ち、休息中の大内軍に襲い掛かります。奇襲をかけるつもりで大友本陣を壊滅させた大内軍は、逆に奇襲を受ける形になり混乱。
大友側の奮戦に支えきれず壊走。大将の陶興房も負傷し、もと来た道を逃げ戻り海路周防へ撤退しました。
これが今旅の大きなテーマ、吉弘氏直と、彼が戦った大友・大内の最大最後の闘いと呼ばれる「勢場ヶ原の戦い」の顛末です。
つづく
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