中国出張の直前に、大分県の国東半島へ小旅行してきました。
下が初日のルートです。
3日目に帰宅しましたが、2日目、3日目は下のルートとほぼ同じルートで戻っていますので割愛。地図中の×印はルート作成時のものなので、意味はありません。
片道250kmくらいでした。
今回の旅のお題は、
「吉弘氏直とその一族」
吉弘氏直って、かなりマイナーな武将ですが、室町時代後期の人で豊後国(今の大分県)を支配する大友家の家臣でした。
彼を知るきっかけになったのが何だったか、今思い出そうとするとかなり困難です。
・・・要するに忘れました(苦笑)
戦国期に豊後国が舞台になった戦いはそれほど多くありません(要するに鎌倉期から続く大友家の支配が安定していて比較的平和でした)が、「勢場ヶ原の戦い」はその中でも数少ない豊後国内の大合戦でした。
この戦いの大友方の大将が、吉弘家の若き当主「吉弘氏直」。この時、弱冠19歳。
吉弘氏(よしひろし)はもともと大友庶流の一支族です。
国東半島東部、武蔵の吉広の地(現在の国東市武蔵町吉広)に住まうようになって吉弘氏を名乗るようになっています。
その後、本拠地を国東半島北部、現在の豊後高田市の山よりにある「都甲」の地に移したのが、氏直自身とも氏直の父、親信とも言われています。
豊後国都甲荘(現在:豊後高田市都甲)
(2015.8.1 都甲風景 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)
都甲には屋山(ややま)という孤山があります。
吉弘氏はこの麓に筧城を築き本拠とし、後詰の城として屋山の山頂に屋山城を築きます。
筧城跡(現在:載星学園付近)
(2015.8.1 筧城跡 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)
筧城付近から眺める屋山(奥に見える、山頂が平らなテーブル状の山)
(2015.8.1 屋山遠景 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/200)
彼ら親子の時代は、15世紀後半に京で始まった応仁の乱の影響が地方に及び、全国規模で戦乱が激しくなっていた時代でした。
豊後の大友家は豊前、筑前(九州北部)の覇権を巡って大内氏と戦を繰り広げていました。
つづく
0 件のコメント :
コメントを投稿