2013年8月26日月曜日

伍子胥から范レイ~呉越同舟、臥薪嘗胆~

有陰徳者、天報以福


楚の孫叔敖からの~ヒツの戦い の続きです。

范レイのレイの字はチョー難しいので、気になる方はWikiでも見てください。
さて、楚の伍子胥が呉の国に亡命した、あたりまで書きました。
韓国出張の際に「范レイ」という題名の本を読んだので、そこまで持っていこうかなと思いました。

さて、伍子胥。
彼は父や兄を殺し、楚の国でも名家だった伍家を取り潰した楚の国王平王と、王にそそのかした奸臣費無忌に対し、恨み骨髄です。
「このうらみ、はらさでおくべきか」と、魔太郎のようにつぶやいたかどうかは知りません。
南の隣国呉の国に亡命します。

呉の国は今の中国蘇州付近を領土としていました。
蘇州、いいですねえ。長江の河口付近の南側に位置するこの都市は、水運の町でもあり、東洋のヴェニス、なんて呼ばれたりしますね。

蘇州夜曲、という歌がありますが自分のイメージもこんな感じです。やっぱ李香蘭ですよ。
この曲を聴きながら、蘇州の古い町の中で運河の水面を見つつ、杯を傾ける・・・




その呉の国はこの時代では著しく後進国といっていいくらいの国でした。
領土も、蘇州付近を領するだけの小国です。
一方、楚は今の湖北省、湖南省にまたがる広大な領土を持ち、ちょっと前の王の代では中央で華々しく先進国のリーダーだった北の大国晋を戦で破り、大陸の覇者となった国です。
湖北省、湖南省にまたがる地域、だとわかりにくいかもしれませんが、ざっくり言えば黄河と長江の間の地域で、西は今の四川省の手前まで。東はもちろん海岸まで。(すごくざっくりです)

何で伍子胥はそんな国に亡命したんでしょう。
亡命して彼が仕えたのは公子光。
公子、とは王子のことですので、すなわち当時呉王だった僚の息子の光王子に仕えました。
伍子胥は公子光を支え、やがて彼を呉王にします。
新たな呉王の側近補佐となった伍子胥は後世、孫子と呼ばれるようになる孫武の登用を呉王に進め、呉国の国力増進に勤めます。
小国だった呉の国力でも、楚に太刀打ちできるような状況を待ち、作り出すのが孫武の兵法。
彼の采配により呉軍は楚軍に連戦連勝し、やがて楚の都郢(エイ)を陥落させます。
この時、実は伍子胥の恨みの対象だった楚王の平王はとっくの昔に死んでいました。
しかし、伍子胥は平王の墓を暴き、おそらく朽ち果てていた平王の死体に鞭をうって恨みを晴らす、という驚くべき行為に出ます。
死者に鞭打つ行為、とはまさにこのことですね。

実はこの頃、呉のさらに南の越の国に不穏な動きがありました。
長江の南に銭塘江という河があります。
毎年、8月の中ごろに逆流する、海嘯、という現象が起こることで有名ですね。
この銭塘江の河口付近の南岸に越の国がありました。
首都は会稽。今で言えば紹興市。紹興酒で有名な都市です。


呉と越。
隣り合った後進国同士の二国ですが、中が悪く、戦を繰り返していました。
呉越同舟、という言葉があります。
いがみ合ってても同じ目的のためなら協力することを言います。
単に、仲が悪い人たちが同じ場所に居合わせることも、呉越同舟って言い表しますね。


越の国は呉に比べてもさらに後進国。むしろ文化の及ばない野蛮な国とすら見られているような地域の国でした。
そんな国に卓越した政治家が二人、いや三人いたのです。


一人は計然。彼は范レイの師と言われる人ですが、司馬遷の史記にある貨殖列伝に名前が挙がるように、この時代の最先端を行く経済家でした。
野蛮な国といわれた越の国に、超一流の経済家が居るというのもすごいですな。

一人は文種(ぶんしょう)。かれは范レイと並び称される政治家です。

そしてもう一人が、范レイ。この時代の、越の国でのポジションは軍師というようなところでしょう。

私が読んだ本では、范レイが越の国に来る前は孫武の弟子であった、という設定があります。
(もちろん、越の国で頭角を現す前の范レイのことは不明である、というのが現在までの事実です)
時代は春秋時代の終わりごろ。
この時代のもっとも最先端を行く政治家、兵法家が3人も、このもっとも野蛮な国にいたのは奇遇でしょうか。

越軍は、楚国に遠征中で空に近い隣国呉に攻め入りました。
しかしこのときは孫武の兵法が范レイを上回っており、うまくいきませんでした。
ただ、従属国であるはずの越が呉に背いて空き巣に近い行為に及んだ件は呉王にとっては遺恨となりました。
その後、当時の越王が死に、その後を息子の勾践が継ぎます。
この混乱の時期に呉王は先年の恨みを晴らすべく、越に出兵しますがあろうことか呉王はこの戦いで死んでしまいました。

呉王は死ぬ間際に息子に越国に対する復讐を誓わせて息絶えます。
息子の夫差は父の恨みを忘れないため、寝心地の悪い薪の上に寝起きしたといいます。これが臥薪
呉王夫差は越の国に攻め込み、滅亡寸前荷まで追い込みますが、すんでの所で越王勾践を許し夫差の飼っている馬の世話役(いわば奴隷)として一命を助けます。
その後、勾践の日ごろの態度を見て心服したと思い込み、越の国に彼を帰してしまうのですが勾践の態度は見せかけでした。
かれは自分の国に戻ると復讐を誓い、苦い肝を嘗めて呉王に仕えていた屈辱の日々をを思い出していました。これが嘗胆
呉王と越王二人の復讐を忘れない行為から、臥薪嘗胆、という言葉が生まれたんですね。


さて、呉王夫差には越の国から美女が差し出されました。
彼女の名は「西施」。そう、絶世の美女です。


台湾に行くと、檳榔(ビンロウ)の実を元にした噛みタバコのようなものがあります。パラオの人もよくやってますねえ。
街中に通りに向いている側はガラス張りのお店があり、麗しい女性が座っているだけの姿を見かけます。
檳榔の看板や、独特な虹色の扇形ネオンでそのタバコのようなものを売っている店とわかるのですが、売り子はたいがい、この麗しい女性たちなんですね。
この女性のことを、台湾では「檳榔西施」(ビンランスース)と言います。




(2010.12.18 檳榔のお店の看板@台湾  byFinePix F200EXR F9.0  ISO200 1/420)

彼女にメロメロになった呉王は越に対しての警戒を全く無くします。
彼は後顧の憂いがないとして、北の中原への野望を見せます。
この間、越は名臣文種と范レイの活躍もあり、せっせと国力増強に励みます。
また、この頃には孫武は呉軍を離れて隠遁生活を送っており、伍子胥は越に対する警戒を怠らないように呉王に諫言するのですが、これを疎ましく思う呉王夫差との関係がうまくいかず、ついには呉王から自害するように言い渡されます。伍子胥は悲憤のうちに自害して果てました。
これは范レイが差し向けた離間策だったのです。

やがて、機が熟したとみた越軍は呉を攻め、ついに呉の都を占領します。
呉王夫差は伍子胥に合わせる顔がない、といって自害します。これをもって一度は大国楚を滅亡寸前まで追い込んだ呉は滅んでしまうのです。

さて、野望を遂げた越王勾践。
彼の容姿は
「長頸烏喙」
つまり、首が長く、唇が黒い、と表現されています。
この相は、艱難を共にすることは出来ても、安楽は共有できない、と言われているとして、范レイは越の臣を辞しどこかへと去っていきます。
またこの言葉を友人の文種に書き送り、飛鳥尽きて良弓はしまわれ、狡兎死して走狗煮らる、の例えありとして、早く越から逃げるよう進めますが、結局文種は讒言を信じた勾践に死を命じられ自決します。

さて、范レイ。
越を去ったあと海路を経て斉の国にいきます。
斉は太公望呂尚の建てた国で、いまの山東半島が領地になります。
彼はここで名前を変え、師匠の計然の理論を下に貨殖の道(商売)を歩むことを決意します。
短期間のうちにかれは巨万の富を得た、と史書は記しています。

その後、斉の国の宮廷では彼がその昔越の名臣范レイであることに気がつき、宰相として宮廷に招くことにしますが范レイはこの招きを断り、それまでに築いた富を使用人たちにすべて分け与えて斉の国を脱します。
彼が次に移った土地は斉の隣国宋の陶、と言う街でした。
その地で陶朱と名乗り、再び商売を始め瞬く間に巨万の富を築き、街の人々から陶朱公と呼ばれ尊敬を集めたと言います。
陶朱公こと范レイはこの地でなくなったそうです。

ちなみに自分は小学生の頃に海音寺潮五郎の「孫子」を読んだ時に、范レイに出会いました。正直出来すぎ君のような范レイには好感が持てず、孫武・孫子に強く惹かれる一方で、一途で有能で恨み一辺倒ではなく政治的バランスが取れているものの、屍に鞭打つといった心に「狂」を持った伍子胥にもひどく共感した覚えがあります。

それは今でも同じかな。

子供の頃の印象ってのは怖いなー。


2013年8月11日日曜日

キーワードは「三星堆」

九州国立博物館の「ぶろぐるぽ」にエントリーのため、再編集しました。(2013.8.28)



(2013.7.13 九州国立博物館 byNEX5N SIGMA 30mm F2.8 EX DN F2.8 ISO100 1/800)


7月某日、毎度のことながら大宰府に行ってきました。
会社の人から、国立博物館で中国の歴史ものを展示しているらしい、と言う情報を入手。
調べてみると、古代(夏の時代)から中世(宋の時代)に至る、世界的にも最上級の遺物を展示するイベントが行われていました。
・・・しばらくパソコンが無かったので、チェックしてませんでした・・・orz


さて、行って見てきました。
一言で言えば、
「すごい」
です。
どれもこれもすごいんですが、なかでも自分にとってインパクトがあったのは古代の遺物でした。






中国の歴史のスタートは、「殷」王朝(正確には「商」王朝)から始まり、その後「周」、春秋戦国を経て、「秦」、「漢」と続きます。
殷(商)王朝が実在したことは、殷墟(殷(商)王朝の都とされる)から発掘された遺物から、ほぼ確定しています。
このため、中国最古の王朝は「殷(商)」と考えられていました。
それ以前の王朝については、歴史書に載っているだけで空想伝説の物ではないか、と言われてきました。


史書でしか登場しない、(殷(商)王朝以前の)「夏」(日本語では「か」。中国語では「シャァ↓」)王朝があったのかどうか。
ただの伝説ではないか。
まぁ、ギリシャ神話におけるトロイアはあくまでお話の上での都市で実在はしない、と思われていたのと似ています。


その伝説がトロイア同様に現実味を帯び始めたのは、実はごく最近の事です。
中国での「二里頭遺跡」の発掘は世界に衝撃を与えたと言ってもいいでしょう。
現在、「二里頭遺跡」はこの「夏」王朝の都だったのではないかという説が大きな勢力を持っています。
ちなみに、「二里頭遺跡」で発掘された貴重な遺物の多くも、大宰府国博で展示されています。
必見ナリヨ。


さて、ここまでは自分も知っていました。
今回の展示で自分にとって強烈なインパクトだったのは「三星堆遺跡」の遺物の数々でした。


(一級文物 「突目仮面」 青銅 前13-前11世紀 1986年三星堆遺跡出土) 

世界では古代4大文明と呼び、中国黄河流域の黄河文明、インド・インダス川沿いのインダス文明、イラク・チグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミア文明、エジプト・ナイル川沿いのエジプト文明の四つが最古の文明と信じられていました。
これに加えていいかどうかわかりませんが、中国・長江文明が今の四川省あたりにあったようなのです。
長江文明は黄河文明と明確に異なった出自の異なる文明であったことが、展示の遺物でわかります。
もちろん、その後の歴史の中で二つの文明が出会い互いに影響しながら融合していくさまは、中東のチグリス・ユーフラテス文明とエジプト文明の影響を知っていれば理解できる範囲の出来事です。


長江文明の遺物は非常にシュールでかっこいいです。巨大な突目仮面は、その後中原には伝わらなかったんでしょうか。
中原に伝われば、いずれは日本にも伝わったかもしれないのに。残念。
黄河文明にはなかった多量の金装飾製品もあり、非常に興味深いです。


(一級文物 「金製仮面」 金 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)




(一級文物 「人形器」 青銅 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)




展示の副題には「3000年の美の興亡」とありますが、夏や古蜀の時代が4000年前ともいわれているので「4000年の美の興亡」の間違いです。
中国4千年の歴史を侮ってもらっちゃあ困る。

第二章は春秋戦国時代。

楚と斉、魯、にフィーチャーしています。

楚に関しては、以前ここでも伍子胥のことを書いています。

楚や楚の南の呉や越は中原(黄河付近)と違う文明からの出自があったと思われます。
この長江以南の国々の君主が春秋の頃から「王」を名乗っていたことは、その証拠と言えましょう。中原の国々は「周」から封じられた地方領主なので、~候とか、~公という呼び方をします。(晋の文公など)
これは上に書いた、黄河文明とは独立した長江文明のアイデンティティの強さを物語るものといえます。

今回の展示物にある、「羽人」(ウジン、ユーレン)といった独特な観念から生まれたと思われる造形の遺物を見ても、そのことを強く感じさせます。


(一級文物 「羽人」 木・漆 前4世紀 2000年荊州市天星観出土)

斉は太公望呂尚の開いた国。彼自身が羌族出身だったからかどうなのか、斉は出自(出身民族)を問わずに実力主義的な多民族国家だった、というのが私のイメージ。
山東半島の付近の土地はそれほど肥沃でなく生産性も低かったけど、塩と鉄が取れた。
工業系と商業系の発展が斉をその後の強国に育てたといっていいでしょう。
そんな国の芸術は事実をありのままに見て表現する、というのが流儀になったのかどうか。
下の犠尊(青銅の容器。中にお酒などを入れて神に供える)の肉感にはそんな風な印象がありました。


(一級文物 「犠尊」 青銅、金銀緑松石等象嵌 前4-前3世紀 1982年山東省臨淄区商王村出土)



(一級文物 「猿形帯鉤」 銀、鍍金、貼金、ガラス象嵌 前3世紀 1978年山東省曲阜市魯国故城遺跡出土)

博物館には、この帯鉤(タイコウ、帯止め。今のバックルのようなもの)の模型がおいてあり、春秋戦国時代の人のベルトを締める感じを体感できます。


このほか、











というような章立てで展示されています。

写真は

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

九州国立博物館で2013年9月16日までやっています。
ぜひ、お見逃しなく。


(2013.8.28 追記・再編集)