2015年4月29日水曜日

杉原千畝さんのこと

安倍君は今、アメリカにいるようです。
ワシントンのホロコースト博物館で杉原さんのことについてコメントがあった、とニュースがありました。
20年位前、自分も仕事でワシントン近郊に出張したときに、ホロコースト博物館を訪れました。
それ以前に日本で映画「シンドラーのリスト」を見て、杉原さんのことを知りました。博物館にも杉原さんの事跡を伝える展示もありました。同じ日本人として彼の勇気は素晴らしいと思いました。


ただ、世間や安倍君が杉原さんの勇気や信念を讃えるのとは裏腹に、彼が外務省を辞めさせられた経緯についてはあまり知られていません。当時、そして今でも外務省は、杉原さんと、その行為に対して「厄介者」というレッテルを貼ったままではないか、とおもうことがあります。


公式には杉原さんの死後14年も経って、河野洋平外務大臣によって名誉が回復された、ことになっています。20世紀の終わり間近になるまで、外務省は彼とその行為に「裏切り者」というレッテルを貼り続けていたのです。


現在において、彼の名誉は回復されていますが、かといって杉原さんがとった行動を外務省自身が名誉としているか、といえば疑問です。組織において、訓令違反を行った杉原さんを認めてしまえば、外務省の組織としての権威が落ちてしまう、とでも考えているのではないでしょうかね。ばかばかしいことですが。


そんなわけで、安倍君が本心から言ったかどうか、杉原さんを讃えた、というニュースと、彼が近隣国に対してあまり友好的ではない態度や、沖縄米軍基地問題への態度、東北で今でも大変な思いをして故郷に帰れない人がいる中で原発推進をしている態度を鑑みると、組織や既得権だけ見ている外務省などのお偉方と同じで、言動と行動が「人道」と言う言葉からはかけ離れているではないかと、甚だ白々しく感じたのでした。


なんとなくおもうのですが、河野談話とか村山談話を出した河野さん村山さん、厚生省の薬害エイズ拡大責任を明らかにした菅君の評価は日本ではパッとしない。東日本大震災での菅君の行動は批判すらされているけれど、自分は高く評価している。
こういったことも、杉原さんの事跡とダブって見えるんです。








2015年4月28日火曜日

23, 24回目の給油

Xi’an記事も残すところ2回。(あと2回もあるのかよ)
基本的に旅記事はまとめて書くので、いつアップするか、だけの状態になっています。
最近ちょっと体調が悪く、実際にはここ数日自動でアップされるだけで自分はほとんど作業していません。久しぶりに、と考えたら結局機械的にアップする定期的な記事になってしまいました。


そんなわけで4月も終わりかけですが、Pちゃんの3月の燃費状況です。


3月。暖かくなってきました。
燃費も伸びて平均26km/L超え。




原油価格を考えるとなぜレギュラーが131円なのか、全く納得がいかない。
全国規模でガソリンの消費も下がっているはず。ガソリンスタンドの数も減少の一途です。
街中を見渡すとハイブリッド車か軽かというくらいガソリン消費の少ない車が走っているというのに。タダでさえ税金2重取りで、さらに不当価格というのはどうなんでしょうね。
政権と業界が癒着しているから是正措置も起きないんだ。そーにちがいない(w






2015年4月27日月曜日

痛快なり

見通しが甘かった責任取るべき人は、きっちり自らすべきことをなせ。


私たちは待ち受ける苦難を乗り越えて先に進もう!


陝西の歴史から現代の西安へ

前半、ゆっくり見ていたら後半の南北朝~隋唐、およびそれ以降はほとんど駆け足で見ることになりました。2時間くらいではぜんぜん時間が足りませんな。

(2015.4.11 陝西歴史博物館建物入口 byNEX5N E 18-55mm 21mm F 7.1 ISO100 1/80)

博物館の出入り口から表の門を撮影。門の屋根には鴟尾がついてます。



(2015.4.11 陝西歴史博物館 門 byNEX5N E 18-55mm 22mm F 8.0 ISO100 1/80)

鴟尾は屋根の上の端にある、くりんとした飾りのこと。日本だと、唐招提寺とか東大寺のが有名です。日本もこのころはパクリまくって中国に追いつこうと必死でした。




(2015.4.11 陝西歴史博物館 門 byNEX5N E 18-55mm 20mm F 7.1 ISO100 1/80)

陝西歴史博物館、すごっく見ごたえありました。
自分のような歴史好きにはたまらない博物館です。
たぶん一日中いても飽きない気がします。


(2015.4.11 西安の街角 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 8.0 ISO100 1/100)


博物館を出て少し歩くと繁華街です。夕方17:00過ぎです。
急に現代に戻ってきた感じ。4000年くらい飛び越えたんで、ややくらくらします(w
右側はショッピングモール。自分は興味ないので行きませんでした。
西安、っていっても日本と同じような風景。西安は若い人が多い街です。



(2015.4.11 西安の地下 byNEX5N E 18-55mm 19mm F 4.0 ISO1600 1/60)

階段を降りて地下鉄の駅へ。





(2015.4.11 西安地下鉄2号線 小寨駅 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

歴史博物館最寄り駅は「小寨駅」


(2015.4.11 西安地下鉄2号線 byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO800 1/60)


昼以降ほとんど食べていないのでお腹すきました。
まずは西安の真ん中に向かい、食事する場所を探すことにしました。



(2015.4.11 西安地下鉄2号線 鐘楼駅 byNEX5N E 18-55mm 21mm F 4.0 ISO640 1/60)

西安地下鉄2号線の小寨駅から4つ目の駅が、「鐘楼駅」です。ここで下車。
西安の地下鉄は2011年末に開業したので、まだ3年半くらいしか経っておらず新しいです。チケットを買うのは自販機で買えますが、係員が付きっ切りで対応していました。
まだチケットの買い方を知らない人がいっぱいいるそうです。




(2015.4.11 西安鐘楼 byNEX5N E 18-55mm 20mm F 13 ISO100 1/100)

地上に出ると広場がありました。日本で言えば、代々木公園みたいなものかな。左奥に見えるのが西安鐘楼です。明朝初期の洪武帝の頃に建てられた歴史的建造物です。中国国内の町には古くからの建物があって、鐘楼も古い街には必ず一つある、くらいお約束の建物ですが、西安の鐘楼はその中でも結構大きい建物らしいです。街の真ん中にあります。(本来の場所から移設されたらしい)




(2015.4.11 西安街角(鐘楼付近) byNEX5N E 18-55mm 21mm F 4.5 ISO100 1/60)

鐘楼を背にして進みます。前には西安鼓楼がみえます。鐘楼と同時期に立てられたものです。本来、鐘楼も鼓楼も街の人々に「時」を知らせる、公の建物です。




(2015.4.11 西安鼓楼 byNEX5N E 18-55mm 21mm F 6.3 ISO100 1/80)

西安鼓楼です。額には「聲聞于天」とあります。調べたら詩経の一節でした。


「鶴鳴于九皐 声聞于天」(詩経)
(鶴は深い谷底で鳴いても、その泣き声は天に届く。つまり賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡るというたとえ。)


この写真を撮影している自分の背中側は西安でも有名な食事どころ、回民街(ホイミンチエ)。回民とはイスラム教徒のこと。回民族といっても必ずしも人種が違うわけではないらしく、中には漢民族もいるようです。見た目にはほとんど変わりません。単にイスラム教徒というのが共通点らしいです。
現在の中国には少数民族優遇政策と言うのがあるので、熱心なイスラム教徒でなくても、イスラム教に改宗して回民族の申請をする人もいるとか、いないとか。





















2015年4月26日日曜日

Androidのバージョンアップ







先週、Nexus7にAndroidのシステムバージョンアップが降ってきました。
新しいバージョンは5.1




自分のモデルはNexus7 2013 Wifiモデルです。これまではバージョン5.0.2でした。


新しい機能


Android 5.1で追加・修正された主な機能は以下の通りです。
•複数SIMのサポート
•端末保護機能(Device Protection)
•HD通話対応
•クイックセッティング内の動作改良
•ロック画面での動作改良
•ポップアップ通知(Heads Up)の改良
•細かいアニメーションの改良


自分のNexus7はLTEモデルじゃないので複数SIMサポートは全く関係ありません。
他の変更も、機能アップ、と言うほどのことではないのでバージョンアップしても効果はわからないような気がします。


カカクコムとか2chの声を聞いていると、わずかながらスムーズになったという話もありアップして不具合の話はほとんど聞かれないので、バージョンアップそのもののリスクは小さいようです。
今晩バージョンアップしようっと。


アプデ、しました。





2015年4月25日土曜日

陝西的歴史 (隋唐)

いよいよ隋唐時代のコーナーです。
といっても隋代のものはほとんどありません。




(2015.4.11 三彩建築模型 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

副葬品です。さすが唐代の副葬品になると、手がこんでいます。唐三彩による建築模型をお墓に入れるとは。おかげで、当時の建築事情を調べる際、大いに参考になります。


(2015.4.11 鬼瓦 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)



(2015.4.11 左 平城京図 右 登観音台望城 七言絶句 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)

右は長安の整然とした町並みを歌った白楽天の「登観音台望城」の七言絶句。
左は長安を模して作られた日本の古都、平城京。まさかシャンシー(陝西)に来て、平城京地図を見るとはねえ。




(2015.4.11 三彩低頭 仰頭馬 (唐 大足元年 701年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)



(2015.4.11 唐代の碗や罐、灯頭、皿など金器銀器 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)



(2015.4.11 鴛鴦蓮弁紋金碗 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/40)


金碗、というとその材質に目をうばれがちですが、側面に加工された紋様が精緻です。





(2015.4.11 鎏金鉄心銅竜 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)

中国人は竜が好きですね。



(2015.4.11 緑釉壷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)

美しい。三彩というと、低温で焼いた鉛釉陶器のことを指し、白地に緑、褐色、藍の釉薬をつけた三色柄と思いがちですが、緑と藍、緑と褐色、緑だけ、藍だけ、というようなものも三彩と呼ぶそうです。



(2015.4.11 唐三彩 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)





(2015.4.11 左 三彩四系罐 右 三彩罐 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)

釉薬をわざと流れ滴らせてデザインしています。滲みの技法も使っています。



(2015.4.11 三彩天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)




(2015.4.11 唐代の白瓷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)

唐代では葬儀を手厚く行っており、三彩は主に「明器」といって副葬品の陶器にする装飾だったようです。日常ではあまり使われるものではなかったのです。
日常の一般的な道具には、白磁青磁黒磁などが使われていました。また唐代ではそれらの陶器を世界に輸出し、技術も向上し、その価値を高めていった時代でもありました。



(2015.4.11 黄褐釉執壷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)




(2015.4.11 玄奘のたどった道 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)

唐の高僧、玄奘三蔵は、実在の人物です。天竺(今のインド)に経文を求めるたびに出て、そのたびの様子が後に「大唐西域記」にまとめられ、西域の様子を知る重要な資料となりました。またこれを元に「西遊記」が成立したのは有名ですね。



(2015.4.11 天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)

玄奘三蔵の事跡からもわかるように、中国における仏教は北魏の時代に最初のピークを向かえ、この唐の時代に再び大きな盛り上がりを見せます。上の天王俑の多くは明器(副葬品)です。天王そのものは仏の教えを守護する役割を持っています。四天王というのは日本でも有名です。唐代では死者を守る役割があったのかもしれません。




(2015.4.11 彩絵描金半身天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)


(2015.4.11 仏像  byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)



(2015.4.11 彩絵生肖 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

生肖は十二生肖ともいい、いわゆる十二支です。日本では十二支といえば動物ですが、オリジナルの中国での意味は単なる順番だったようです。この順番に当てられた動物を十二生肖といいます。


(2015.4.11 大秦景教流行中国碑 (唐代建中2年 781年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)

昔教科書で見たような気がしますね。
大秦というのは古代ローマ帝国(もしくは東ローマ帝国)のこと。景教はキリスト教ネストリウス派のことで、たしかナンチャラ公会議で異端とされた教えでキリスト教世界で大いに迫害を受け、東へ東へと逃れていった歴史があります。そしてたどり着いたのが中国。中国唐代で、景教は大いに栄えます。この石碑はそのときの様子を伝えており、また古代キリスト教の資料としても大いに価値があるもので、世界的に有名です。世界史を選択していた自分にとってもこれはなじみがあります。

大秦国、というのは後漢(東漢)の史書、後漢書に最初に現れます。古代ローマ帝国の死者が漢の国に朝貢した、と伝えています。(まぁもちろん、ローマがそんな使者を送る理由はないので何かの勘違いだとおもわれます)

栄華を誇った景教も、9世紀半ば、唐代末期に18代皇帝武宗によって弾圧を受けて衰退します。この頃仏教も同じく迫害を受けて衰退しています。武宗は道教に傾倒していました。




(2015.4.11 三彩女立俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

唐三彩のフィギュアも数多く残されていて、当時の風俗を知る貴重な資料になっています。
この人形の顔の人、どっかにいそう。



(2015.4.11 唐代の女性 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
唐代の女性は眉がキリリ、としとんのね。



(2015.4.11 左 彩絵釉陶笠帽女騎俑 (唐 竜朔三年 657年)右 彩絵帷帽女騎俑(唐 顕慶二年 657年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

唐代、女性が騎乗する、というのはめったにないことだったはずですが。たぶん。
唐代に女性(特に貴族の女性)の男装が大流行したそうです。その表れじゃないですかね。




(2015.4.11 唐代女性の化粧の順序 髪型 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)



(2015.4.11 唐代女性の眉型の変遷 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO800 1/60)

古今東西、こういうのはよく見かけますが、「すごいよな」と言う言葉で片付けたい自分がいます。



(2015.4.11 唐代交易路 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)

唐は、それまでの歴代の中華王朝の中でも最大版図を獲得しました。当時長安の都は人口100万人、と言われています。
西の内陸部に広がった領地からは西域の情報や文物が到来し、人の往来もかつてないほど多種多様な人種が中国を訪れていました。交易のルートも内陸のシルクロードだけでなく、海路の交易ルートも発達しました。



(2015.4.11 彩絵胡人文吏俑 (唐 麟徳元年 664年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)

これも明器です。なぜ外国人の文吏、つまりは役人の人形を副葬品にしたのでしょうかね。胡人というと、中国の西方の人々を総称して胡と呼んでいましたが、唐代ではペルシャ系のソグド人の事を指すようです。



(2015.4.11 三彩吐蕃人俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)

吐蕃とはチベットのこと。吐蕃人はこういうなりをしていたんですね。



(2015.4.11 三彩亀茲人俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)

亀茲は西方の王国です。タリム盆地の北側にありました。唐代初期に唐によって一旦滅ぼされてその地に都護府(地方行政機関)を置かれます。
亀茲人の人種はインド・ヨーロッパ系でした。



(2015.4.11 彩絵釉陶胡人騎馬俑 (唐 麟徳元年 664年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)

中国周辺に住んでいた人々の歴史や風俗は資料が少なく、闇のなかにおかれることが多いのですが、理由は不明ですがこうして副葬品として人形が残されているおかげで、どんな服を着てどんな顔の特徴をしていた、と言うことが後世に伝わるのですから、すごいことですな。




(2015.4.11 中国の製紙技術世界伝播図 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)

歴史の教科書ネタ。
唐代に起こった、中央アジアでのイスラム系帝国(アッバース朝)との戦い(タラス河畔の戦い 751年)で、製紙技術が西洋に伝わった、ことになっています。




(2015.4.11 和同開珎 (唐 景竜二年 708年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)

人や物の交流は西ばかりではありません。東方の後進国日本も同様です。
長安に日本初の貨幣、和同開珎があったんですね。ペルシャやウイグルの貨幣と一緒に並べてあります。



(2015.4.11 藍玻璃皿 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

唐代、すでに中国ではガラス製造技術はありました、製造技術の高さは当時の世界ではイスラム世界が最先端でした。ガラスの発祥も紀元前4000年のメソポタミア・エジプトと言われていますから年季が違うんでしょう。



(2015.4.11 左 黄玻璃杯 右瑪瑙白(唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)

上のようなイスラム風ガラス器は恐らく交易によってもたらされたものだとおもわれます。


























2015年4月24日金曜日

陝西的歴史 (南北朝)

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(2015.4.11 各族建立政権示意図(十六国) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO800 1/60)



三国時代の後は司馬氏が晋を建て分裂の時代を終わらせます。
晋の統一は長続きせず、北の騎馬民族、匈奴に華北を奪われて南に逃れます。
この匈奴族が建てた前趙の建国年304年から北魏が華北を統一する439年まで、十六国(日本では五胡十六国)時代と呼び、十六国以上の国が興亡を繰り返しています。
長安付近は、前趙、前秦、後秦、大夏がかわるがわる都にした、と解説がかいてあります。
正直どこがどうなっているのか、複雑すぎてよくわかりません。



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(2015.4.11 五銖銭(西魏 535~556年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/40)



五銖、というのは漢の時代から鋳造されている貨幣です。
西魏というのは十六国時代が北魏(曹操の建てた魏とは異なる。漢族ではなく鮮卑族の拓跋氏によって建てられた)によって終焉した後に、北魏が東西に分裂してできた長安を都とする西側の国です。



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(2015.4.11 騎馬俑(西魏 535~556年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/25)



副葬品。
北魏から分かれた西魏、その後の北周は、元は騎馬民族だった鮮卑族の国です。
馬との係わり合いが密接だったんでしょう。



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(2015.4.11 騎馬武士俑(左 北魏 386~534年 右 北周 557~581年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/50)



こちらも恐らく副葬品。



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(2015.4.11 銅鐎斗 炊具(南北朝 386~589年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/30)



北魏が華北を統一した以降を南北朝時代と呼んでいます。南方は東晋から宋斉梁陳の4国が興亡します。南朝文化、とか三国時代の呉や東晋を含めた六朝文化、と呼ばれるほどかつてないほどに江南方面は豊かで華やかな貴族文化が栄えます。



銅鐎斗というのは銅製の料理用鍋のこと。





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(2015.4.11 獬豸(陶製一角獣 北魏 386~589年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)



獬豸(日本語ではカイチ)とは一角獣のこと。中国では瑞獣とされて、法律・裁判との関連性が強いです。耳も長いですな。





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(2015.4.11 鎏金佛菩薩三尊銅像(東魏 534~550年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/50)



東魏は陝西と関連がなさそうなのですが、なぜか置いてあります。
前代の北魏時代は中国史上、唐代とならぶほど仏教文化が栄えた時代です。
南北朝~唐代の仏像が多く残されています。
雲崗石窟は有名ですね。これも北魏時代に作られています。



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(2015.4.11 独狐信多面体煤精組印(西魏 535~556年) byNEX5N E 18-55mm 42mm F 4.5 ISO2500 1/80)



独狐信は人の名前です。西魏の軍人だったようです。煤精は硬い石炭のことで、黒玉ともいいます。正方形の印面が18箇所、3角形の印面が8箇所あり、14箇所の正方形印面には文字が彫られています。「大司馬印」とか、「大都督印」とか、「刺史之印」など。
解説には、北朝の印璽制度研究においては貴重な資料である、と書いてありました。





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(2015.4.11 独狐信多面体煤精組印(西魏 535~556年) byNEX5N E 18-55mm 42mm F 4.5 ISO400 1/80)