いよいよ隋唐時代のコーナーです。
といっても隋代のものはほとんどありません。
(2015.4.11 三彩建築模型 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
副葬品です。さすが唐代の副葬品になると、手がこんでいます。唐三彩による建築模型をお墓に入れるとは。おかげで、当時の建築事情を調べる際、大いに参考になります。
(2015.4.11 鬼瓦 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
(2015.4.11 左 平城京図 右 登観音台望城 七言絶句 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)
右は長安の整然とした町並みを歌った白楽天の「登観音台望城」の七言絶句。
左は長安を模して作られた日本の古都、平城京。まさかシャンシー(陝西)に来て、平城京地図を見るとはねえ。
(2015.4.11 三彩低頭 仰頭馬 (唐 大足元年 701年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
(2015.4.11 唐代の碗や罐、灯頭、皿など金器銀器 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
(2015.4.11 鴛鴦蓮弁紋金碗 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/40)
金碗、というとその材質に目をうばれがちですが、側面に加工された紋様が精緻です。
(2015.4.11 鎏金鉄心銅竜 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
中国人は竜が好きですね。
(2015.4.11 緑釉壷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)
美しい。三彩というと、低温で焼いた鉛釉陶器のことを指し、白地に緑、褐色、藍の釉薬をつけた三色柄と思いがちですが、緑と藍、緑と褐色、緑だけ、藍だけ、というようなものも三彩と呼ぶそうです。
(2015.4.11 唐三彩 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
(2015.4.11 左 三彩四系罐 右 三彩罐 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
釉薬をわざと流れ滴らせてデザインしています。滲みの技法も使っています。
(2015.4.11 三彩天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
(2015.4.11 唐代の白瓷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
唐代では葬儀を手厚く行っており、三彩は主に「明器」といって副葬品の陶器にする装飾だったようです。日常ではあまり使われるものではなかったのです。
日常の一般的な道具には、白磁青磁黒磁などが使われていました。また唐代ではそれらの陶器を世界に輸出し、技術も向上し、その価値を高めていった時代でもありました。
(2015.4.11 黄褐釉執壷 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
(2015.4.11 玄奘のたどった道 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)
唐の高僧、玄奘三蔵は、実在の人物です。天竺(今のインド)に経文を求めるたびに出て、そのたびの様子が後に「大唐西域記」にまとめられ、西域の様子を知る重要な資料となりました。またこれを元に「西遊記」が成立したのは有名ですね。
(2015.4.11 天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)
玄奘三蔵の事跡からもわかるように、中国における仏教は北魏の時代に最初のピークを向かえ、この唐の時代に再び大きな盛り上がりを見せます。上の天王俑の多くは明器(副葬品)です。天王そのものは仏の教えを守護する役割を持っています。四天王というのは日本でも有名です。唐代では死者を守る役割があったのかもしれません。
(2015.4.11 彩絵描金半身天王俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO3200 1/60)
(2015.4.11 仏像 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
(2015.4.11 彩絵生肖 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
生肖は十二生肖ともいい、いわゆる十二支です。日本では十二支といえば動物ですが、オリジナルの中国での意味は単なる順番だったようです。この順番に当てられた動物を十二生肖といいます。
(2015.4.11 大秦景教流行中国碑 (唐代建中2年 781年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)
昔教科書で見たような気がしますね。
大秦というのは古代ローマ帝国(もしくは東ローマ帝国)のこと。景教はキリスト教ネストリウス派のことで、たしかナンチャラ公会議で異端とされた教えでキリスト教世界で大いに迫害を受け、東へ東へと逃れていった歴史があります。そしてたどり着いたのが中国。中国唐代で、景教は大いに栄えます。この石碑はそのときの様子を伝えており、また古代キリスト教の資料としても大いに価値があるもので、世界的に有名です。世界史を選択していた自分にとってもこれはなじみがあります。
大秦国、というのは後漢(東漢)の史書、後漢書に最初に現れます。古代ローマ帝国の死者が漢の国に朝貢した、と伝えています。(まぁもちろん、ローマがそんな使者を送る理由はないので何かの勘違いだとおもわれます)
栄華を誇った景教も、9世紀半ば、唐代末期に18代皇帝武宗によって弾圧を受けて衰退します。この頃仏教も同じく迫害を受けて衰退しています。武宗は道教に傾倒していました。
(2015.4.11 三彩女立俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
唐三彩のフィギュアも数多く残されていて、当時の風俗を知る貴重な資料になっています。
この人形の顔の人、どっかにいそう。
(2015.4.11 唐代の女性 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
唐代の女性は眉がキリリ、としとんのね。
(2015.4.11 左 彩絵釉陶笠帽女騎俑 (唐 竜朔三年 657年)右 彩絵帷帽女騎俑(唐 顕慶二年 657年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
唐代、女性が騎乗する、というのはめったにないことだったはずですが。たぶん。
唐代に女性(特に貴族の女性)の男装が大流行したそうです。その表れじゃないですかね。
(2015.4.11 唐代女性の化粧の順序 髪型 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)
(2015.4.11 唐代女性の眉型の変遷 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO800 1/60)
古今東西、こういうのはよく見かけますが、「すごいよな」と言う言葉で片付けたい自分がいます。
(2015.4.11 唐代交易路 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)
唐は、それまでの歴代の中華王朝の中でも最大版図を獲得しました。当時長安の都は人口100万人、と言われています。
西の内陸部に広がった領地からは西域の情報や文物が到来し、人の往来もかつてないほど多種多様な人種が中国を訪れていました。交易のルートも内陸のシルクロードだけでなく、海路の交易ルートも発達しました。
(2015.4.11 彩絵胡人文吏俑 (唐 麟徳元年 664年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1250 1/60)
これも明器です。なぜ外国人の文吏、つまりは役人の人形を副葬品にしたのでしょうかね。胡人というと、中国の西方の人々を総称して胡と呼んでいましたが、唐代ではペルシャ系のソグド人の事を指すようです。
(2015.4.11 三彩吐蕃人俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
吐蕃とはチベットのこと。吐蕃人はこういうなりをしていたんですね。
(2015.4.11 三彩亀茲人俑 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2500 1/60)
亀茲は西方の王国です。タリム盆地の北側にありました。唐代初期に唐によって一旦滅ぼされてその地に都護府(地方行政機関)を置かれます。
亀茲人の人種はインド・ヨーロッパ系でした。
(2015.4.11 彩絵釉陶胡人騎馬俑 (唐 麟徳元年 664年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
中国周辺に住んでいた人々の歴史や風俗は資料が少なく、闇のなかにおかれることが多いのですが、理由は不明ですがこうして副葬品として人形が残されているおかげで、どんな服を着てどんな顔の特徴をしていた、と言うことが後世に伝わるのですから、すごいことですな。
(2015.4.11 中国の製紙技術世界伝播図 byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)
歴史の教科書ネタ。
唐代に起こった、中央アジアでのイスラム系帝国(アッバース朝)との戦い(タラス河畔の戦い 751年)で、製紙技術が西洋に伝わった、ことになっています。
(2015.4.11 和同開珎 (唐 景竜二年 708年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1000 1/60)
人や物の交流は西ばかりではありません。東方の後進国日本も同様です。
長安に日本初の貨幣、和同開珎があったんですね。ペルシャやウイグルの貨幣と一緒に並べてあります。
(2015.4.11 藍玻璃皿 (唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
唐代、すでに中国ではガラス製造技術はありました、製造技術の高さは当時の世界ではイスラム世界が最先端でした。ガラスの発祥も紀元前4000年のメソポタミア・エジプトと言われていますから年季が違うんでしょう。
(2015.4.11 左 黄玻璃杯 右瑪瑙白(唐代 618~907年)byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO2000 1/60)
上のようなイスラム風ガラス器は恐らく交易によってもたらされたものだとおもわれます。
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