2015年4月23日木曜日

陝西的歴史 (漢)

考えてみたら、来週からGWなんですねえ。なんにも考えていなかった。
ここ数日天気が良く、日中は暖かさを通り越して暑くなっています。でも朝晩はまだ寒いです。会社の躑躅も結構な数が咲いて、きれいになってきました。



さて閑話休題。



秦の時代は長くは続かず、強権的で急進的な始皇帝と李斯による改革は、反発を受けます。始皇帝が生きている間は表に出てきても大事になりませんでしたが、始皇帝の死後、各地で大規模な農民反乱が発生。先にも書いたように、地方役人だった劉邦が犯罪者を護送中、驪山で犯罪者と供にヤッテランネーヨとばかりに逃亡します。流浪した劉邦ですが、彼の類まれなる包容力は人気を集めます。戦には負け続け、項羽に追われて西安の南方、山の向こうにある漢中に左遷されたりして(これが漢という国名の起源)散々ですが、最後の戦い「垓下の戦い」で勝って、秦に変わる統一国家、漢を建てます。



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(2015.4.11 象牙算木(西漢=前漢 紀元前206年~紀元8年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO3200 1/60)



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(2015.4.11 金餅(西漢=前漢 紀元前206年~紀元8年) byNEX5N E 18-55mm 20mm F 4.0 ISO1250 1/60)



219枚の金餅。1枚が227.6~254.4gあって、総重量54kgほどあります。1枚1枚に文字や符号など刻印されています。通貨としての流通はなく、恩賞や贈呈品献上品として用いられた、と解説にかいてあります。





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(2015.4.11 金怪獣(漢 紀元前206年~紀元220年) byNEX5N E 18-55mm 46mm F 5.0 ISO2000 1/80)
匈奴は漢の北方にいた騎馬民族でした。時折、漢の領地を攻めて略奪行為に及んだため、漢の7代目皇帝、武帝が大規模な外征を行い、衛青とその甥の霍去病を登用して匈奴との戦いを勝ち進めます。漢は武帝の時代に西域を手に入れ、最大版図を築くのです。
上の金怪獣は匈奴の墓から出土したものです。
武帝に攻められ衰退する前の匈奴の貴族の墓だったのでしょうか?
(ネットで調べてみると匈奴の武将の帽子の上についていた飾りだったようです)
たてがみが豪勢な感じにデザインされた馬、のように見えます。





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(2015.4.11 文字瓦当(漢 紀元前206年~紀元220年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/50)



戦国時代に現れた瓦当ははじめ半円形だったようです。これが秦、漢の時代に円形の瓦当に変わっていきました。デザインも、半円形のころは動物や樹木の文様が主でしたが、円形の時代になると、4分割して吉祥を表す文字をデザインしたものが多くなったそうです。



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(2015.4.11 三国鼎立形勢図(三国) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 4.0 ISO1600 1/60)



漢のコーナーの最後は三国時代。いわゆる三国志の世界ですが、ほんのわずかしか展示がありません。



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(2015.4.11 銅馬刺(三国蜀 221~263年) byNEX5N E 18-55mm 18mm F 3.5 ISO3200 1/20)



上は漢中に程近い、定軍山で見つかったいわゆるマキビシ、です。馬刺と書いてあるから熊本産。。。おれは「馬刺し」かっ!



定軍山といえば、



「遺体は漢中の定軍山に埋めよ」



諸葛孔明が遺言で定めた自らの死に場所。
身は滅び、魂魄になってもこの地で魏軍を食い止めますぞ、という死してもなお故主劉備に向けた忠心に、子供心に身もだえするほど感動した覚えがあります。

















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