2015年1月14日水曜日

フランスの事件

フランスで、その事件は起こりました。


フランスで風刺画が売りの、それほど発行部数の多くない「シャルリ エブド」と言う週刊誌でイスラム主義者によるヨーロッパ支配が広がっていくと言う近未来を、批判的に描いた小説が掲載されていたそうです。
イスラム主義者、ひいてはイスラム世界への危機意識をあおる内容だったらしく、イスラムに関係ない批評家からですら批難されていた模様。


ま、もちろんイスラムの過激派は猛反発し、行動に移すでしょうね。
そして出版社での銃撃事件。
12人が亡くなったとのこと。


いくらなんでもやりすぎです。


世界中から言論の自由に対する挑発として、イスラム主義者への反発がありました。
パリでは世界中の元首や外相が集まってデモ行進をしたと言うニュースがありました。


そして、その「シャルリ エブド」。最新号ではイスラム教の信者にとってはもっとも大事な、イスラム教の預言者ムハンマドをモデルに風刺画を掲載したそうです。


正直ね、この出版社はあほじゃないかとあきれました。調べてみたら過去にもイスラム教世界に対してかなり、悪態ついています。
2006年、ムハンマドをモデルにした風刺画を載せて、フランスの当時のシラク大統領に批判されていますし、
2011年、これまたムハンマドを使って皮肉った内容を扱っておりオフィスに火炎瓶が投げ込まれています。


いや、もちろん銃撃も火炎瓶も絶対許しちゃいかんと思います。
だけどね、その原因作っているほうにも問題があるように思える。むしろそうやってイスラム教世界への憎悪を掻き立てている扇動家、と言う風にも見える。


フランスって昔はクルセーダー(十字軍)の中心的国家でした。この十字軍はキリストを旗印にしながら、イスラムの人を殺せば天国に近づく、と言う馬鹿げた狂信者たちの集まりでした。「シャルリ エブド」もそういったキリスト狂信者の出版社なんじゃないか?って思ったりします。(どうも実際にはそうではなく、無宗教及び言論の自由に対する狂信者たちの集団、らしい)


私はこの件に関して、幾分かはイスラム世界への同情を禁じえません。無論、今回の銃撃事件実行犯にではなく、欧米中心の世界から十把一絡げに嫌悪されそうなイスラム教の世界にすむ人々に対して、深く同情します。彼らが一番の被害者のような気がしてなりません。












2015年1月7日水曜日

温故知新 『日本発掘展』から

津波、と言う言葉。今では日本だけでなく、「Tsunami」として海外でも通じる言葉になっています。
そのきっかけは、インドネシア・スマトラ島沖地震の衝撃的な被害が大きく影響しています。
そして2011年3月11日の東日本大震災では、津波の恐怖を改めて思い知らされました。


大宰府の国博で現在開催中の特別展は「古代日本と百済の交流」ですが、同時開催で「日本発掘展」が開催されています。
これは毎年の考古学上の発掘成果を一般に知らせるべく行われているもので、2014年で20回目の節目を迎えました。
これを記念して、日本を代表する発掘成果を展示することになったそうです。
合わせて、東日本大震災の復興事業に伴い行われた発掘調査結果やその活動を紹介しています。


今回特に取り上げたいのは、ここで展示されていた高知県の石碑についてです。
東日本大震災の記録は、4年が経とうとしていますが今でもYoutubeなどで動画記録として残っており、当時の地震や津波の様子、おびえたり、気持ちが高ぶった人々の姿を伝えているのを見ることが出来ます。
最近、自分は震災当時のネット動画を見あさってました。(震災当日、海外滞在。)
遠い昔、テレビはおろか写真もない時代、記録とは口伝であり文書であり、石造物への彫文でした。
この高知の石碑もそのひとつで、安政地震(1854年12月24日)の際の津波で多くの人命が失われたたことに対する供養塔であり、かつその被害状況や得られた教訓を後世に伝える記録としての役割を持っています。
石碑には表に南無阿弥陀仏、大きく彫られてあり一見墓石のようでもあります。
その経文の横から文字が刻まれており現代語訳したものが以下のものです。


安政元甲寅年の十一月五日申の刻に大地震が発生。
それにより発生した津波が八、九度襲い、残る人家は僅(わずか)に六、七十軒で宇佐・福島合わせて死者七十余人としている。
宇佐は前が高く、後ろが低く、東西の低地より汐が入り込み、逃げ道を取り巻く故、宝永地震(宝永四年(1707)十月四日、午後二時ころ発生)で多くの人が流死したというとの遺談を信じて、取りあえず山手に逃げ登ったものは恙(つつが)なく。衣食を整えたり、慌(あわて)て船に乗った者は、津波の犠牲になった。翌日には、救援米が出されて有り難いことであった。後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰(えら)び逃げよ。家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉(ことごと)く死を眼の前にみたことを言い残す。
二つの地震・津波の溺死者の人の菩提を弔うために衆議してこの碑を建てた。



高知の土佐市にあるこの石碑の名は萩谷地震碑というそうです。
高知に限らず、この震災で津波にあった西日本各地にこのような津波碑、地震碑が建てられて、現存しているそうです。
この碑文にもありますが、過去の経験を忘れないことは大事なことです。
安政地震の際も150年近く前の宝永地震の津波被害の教訓が恐らく父から子、子から孫へと伝えられ、山手に逃げたものは助かった、とあります。


後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰び逃げよ。
家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉く死を眼の前にみたことを言い残す。



先人の遺言は貴重で、重いです。
何よりも、生き延びることが大事、と伝えているこの記録を自分たちは後世に伝える役目があるのだと感じました。


残念ながら写真はありません。
津波碑、地震碑でググると、それなりに行き当たりますので、興味のある方は調べてみてください。




特別展を見て、その後3階の常設展をさらっと見回って、特別展示の「初音の調度」を見てから帰りました。(国博で見るのは2回目。)
帰宅後、国博のサイトで紹介されていたチケットケースの存在を知りましたが、後の祭り。ゲットしそこねました。(泣

時計を見ると昼の13時チョイ前。
大宰府に着いた時は激しく雪が降ってましたが、この頃になるとぱったりやんで、ご覧の通り。






まったりしながら帰りました。












2015年1月5日月曜日

百済との交流 その2

2015年の年明けは、国博をもって初め、としました。
元旦明け二日、雪降る中、大宰府の国博で開催中の特別展
『古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -』
の感想を書きます。
「ぶろぐるぽ」に参加中です。

今更ですが、百済。
くだら、と呼びます。
朝鮮半島の南西部にあった古代国家です。




Wikipediaより

この刀(その1で紹介の七支刀)が倭国に送られた時代(4世紀)、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3国が鼎立して、いわゆる朝鮮半島の三国時代と呼ばれています。
この時代の少し前2世紀から3世紀末、隣の大陸側では劉備や曹操、諸葛亮孔明が活躍する三国時代でした。
半島では北の高句麗が強大で拡大中であり、百済と国境争いを続けている最中です。
高句麗に比べればいささか国力に劣る百済の王は周辺国と友好関係を深めてこの争いを有利にしたい気持ちがあったでしょう。
すぐ東隣には新羅がありこれと友好関係を結び、大陸(南朝、東晋)に使者を送りその従属国となり、日本には七支刀をはじめとした宝物を送って友好関係を結んでいます。
この頃倭国は、といえば、応神・仁徳帝の時代。
ま、古墳時代前期と言い換えてもいい。次の飛鳥時代が6世紀末~なので、文化的はまだまだ弥生時代(石器、土器、青銅器、鉄器)の空気が濃厚に残っていたと思われます。
一方、地続きで近くに華やかな中国文化がある百済の文化水準は倭国(当時の日本)と比べたらずっと高かったはず。
なのになぜ、海を隔てた後進国によしみを結ぶ必要があったのか。
軍事同盟に関しては、相手の文化の程度は関係ないのでしょう。
古代中国においても、漢が対匈奴戦略として西方の遊牧民族国家と外交を結んで挟撃を図り、張騫を西域に向かわせています。
倭国は後進国とはいえ、国土は百済よりも広く国力(兵力や経済力)があったので、敵にするより味方にしておいた方が国益にかなったのでしょう。
本当かうそかわかりませんが、この時代よりも前に神功皇后による半島侵略(三韓征伐)が行われています。
古代日本は当時の中華圏からすればまさに東夷、蛮夷の国だったんでしょうね
七支刀を送った近肖古王はなかなかのやり手で、近隣外交を成功させ高句麗との争いを有利に進め、なんと敵の高句麗王を戦死させています。
残念ながら、展示にはこの近肖古王のことはあまり触れられていませんが、12代後の武寧王を紹介しています。
武寧王は別名、嶋君とも呼ばれ、なんと生まれが日本近海の島。佐賀の呼子から船で20分ほどしたところにある「加唐島」らしいのです。
その紹介はパネルで紹介されています。国博研究員が実際にその島に行って調べている様子も記載。現地の言い伝えを拾っています。実地調査、フィールドワークというのは大事ですねえ。なかなか興味深いです。



武寧王生誕地にまつわる資料

近肖古王の頃は敵国の王を討ち取るなど、百済もがんばっていたのですが、その後高句麗の好太王、(好太王碑=広開土王碑で有名)その子の長寿王の時代に押されて首都の漢城(今のソウル付近)を失い、熊津(今の韓国公州市付近)に遷都を余儀なくされ凋落の一途でした。
この武寧王は混乱していた百済に外交手腕で安定時代を築いて中興させた王として記録されています。



武寧王の墓誌石(韓国の国宝)

武寧王の棺は日本でしか取れないコウヤマキ(高野槙)を使っていたそうです。(by Wiki)
生まれも、そしてその死に際しても、この王様は倭国(日本)とのつながりを愛してやまなかったのかもしれません。


百済、新羅、そして唐といえば。
そう、白村江の戦いですね(そうなのか?)
近肖古王、武寧王と、百済と倭国(日本)との結びつきは非常に強く、たとえ落ち目であっても頼られた倭国は百済を支援し続けました。
大和朝廷は義理堅かったんですねえ。
もしかしたら、半島における利権が絡んでいたのかもしれません。
しかし、ついに660年、百済は滅亡します。


この頃の半島情勢は、半島南東部の新羅(首都は金城、今の慶州(キョンジュ))が急激に勢いをつけてました。
北の高句麗は相次ぐ外寇(隋の煬帝による高句麗遠征)により疲弊してました。一方の隋は無理な外征などが祟って滅亡。代わって唐が建国。
高句麗では新羅勃興の危機感と、大陸側では唐が隋を倒して国を統一したことへの危機感があり、百済と同盟。
新羅は唐の傘下に入って対抗。
660年、唐と新羅連合軍は百済を滅亡させます。
その3年後、百済の遺臣と倭国の連合軍が百済復興を目指して進軍、白村江で唐・新羅連合軍とぶつかります。
そのときの水軍の配置図が漫画絵で示されていますが、典型的な包囲殲滅戦。




また日本書紀によると倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」というもの。をいをい。
つい60年位前の日本の軍人さんが「神風がー」とか「神国が負けるはずねー」とか叫んでいたのと変わらない。
昔から進歩のなかった日本の軍人さんでした。


白村江の戦いで、「負けるべくして」大敗を喫した倭国は大いに狼狽、慌てふためきます。
そして、急ピッチで西国に防衛拠点を築かせるのです。
それが、水城であり、大野城であり、鞠智城なんですね。

 

大野城のコーナー




大宰府政庁が製造を管理した鬼瓦。政庁跡、大野城跡、水城跡で発見されたものが展示されている。全部同じ様なデザイン。





水城のジオラマ




当時の兵士イメージ


この頃の倭国には金(経済力)があったのか、中央集権の強さが際立っていたのか。
どれをとっても大変な大事業ですが、短期間のうちにこれらを準備しました。
その効果は不明ですが、有り余るパワーがあったことだけは確かのようです。
百済が、後進国とはいえ倭国とよしみを結んだほうがいい、と判断したのもうなずけます。
敵国唐の最終目標が高句麗であったことや、それに従った新羅も海を渡って倭国に侵攻するという戦略は微塵もなかったことについて、これらの情報を当時の倭国が収集したかどうか。そんな風に見えませぬ。
わかっていれば無駄な事業をする必要なかったのにねえ。ポーズは必要だったのかもしれませんが。
まぁ、おかげで後世の人にはそれらを掘り返す楽しみが増えるのでいいのですけどね。
2014年は水城が、2015年は大野城、基肄城が出来て1350年だそうです。ってことは出来たのはそれぞれ664年と665年。
白村江敗戦後1~2年でこれらの巨大構築物を作ったのかよ!どれだけあわててたか、想像に余りある。
残念ながら、兵站基地として築かれた我らが鞠智城は築城年が未だ不明です。


4世紀の近肖古王が七支刀、七子鏡を倭国に送ってから続いた百済との交流(イベント)がパネルにまとめられています。



百済と古代日本の文化的なつながりは濃いものでした。
二つの国に共通するのは仏教を厚く保護していたこと。
展示には百済と倭国の仏舎利容器があります。細工の違いはありますが形式は同じです。
百済のものは韓国宝物で、倭国のものは法隆寺五重塔の地下から見つかったものの再現文化財です。



韓国の国宝、仏舎利容器。初の国外展示です。シンプルな美しさがあります。



法隆寺五重塔の地下からみつかった仏舎利容器の再現品。細かな細工が美しいです。
倭国の技術もここまで来たか、というくらいの進歩を感じます。これも百済との交流があったらばこそ、なのです。


また、日本最古の寺院といわれる飛鳥寺(法興寺)は近年見つかった百済の時代に建てられた王興寺という寺のデザイン(配置)が似ているそうです。
百済から技術者を呼んで建てられた、という記録もあるので同じ技術者、もしくは弟子、が飛鳥寺をデザインしたのは想像に難くないですね。


展示では石炭石に金を巻いたネックレスが印象的でした。
石炭も時代にっては宝石と同じ価値があったのでしょうか。構造が違いますがダイヤモンドと元素は一緒。
でも、この時代の人がそれを知っていたとは思えませぬ。
もしくは、魔力とか謎の力が宿っていると信じられていたのでしょうか。



仏教は仏像とともに伝播したともいわれます。
特に朝鮮半島では菩薩半跏像が流行になっていたようです。日本にもその影響があります。



この菩薩半跏像は美しいですねえ。
三国時代(7世紀)百済のもの、と言う表示がありました。国立博物館所蔵になってます。調べてみると、小倉コレクション、なるものあり。
・・・いずれは韓国、朝鮮半島に返還すべきものなんでしょうねえ。
昔50円切手にあった仏像が、菩薩半跏像でした。(奈良、中宮寺のもの)


百済関連の展示はここまでです。
いやー、数は少なかったけど見ごたえ十分。古代の日本を考える上でとても貴重な資料、文物でした。
鞠智城はうちの近所でよく通って憩いにしている場所ですし、大宰府にしても然り、です。
また、百済という国にはなぜか不思議と昔っから思い入れがあります。
故国の、古代日本に寄せる想いに同情しているのか、その盛衰にもののあわれを誘うのか、我ながら良くわかりません。
今回の展示は自分にとっては、どストライクな内容でした。
良い年の始まりを迎えることができました。
七支刀が展示されたら、そのとき日本に居れば、もう一回見に行こうかな。


実は特別展はここでおしまいではありません。
同時開催で、


『発掘された日本列島展20周年記念 日本発掘展 - 発掘された日本列島2014 - 』


と言うものがあります。展示の会場は百済展の隣。すぐ続きの間でやっています。
これに関して、非常に心に刺さった展示があったので、項を変えてご紹介します。


..。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。


写真は


「九州国立博物館」


ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしております。
(*転載とかしないでね。)


特別展『古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -』
九州国立博物館で2015年3月1日まで絶賛開催中!
ぜひ、お見逃しなく。


2015年1月4日日曜日

百済との交流 その1

2015年も、既に4日目ですよ。明日からは通常生活様式が待ってますねえ。
自分は間に出勤がありましたが、9連休と言う人は結構多いのではないですかね。
もちろん、その大勢が休日にかかわらず働いている方もたくさん居ると思います。昨年の自分がそうでした。。。
働いている人も、思いっきり休んだ人も、今年は良い年にしたいですね。


明けて2日目に、自分は大宰府の国博に行ってきました。
国博はちょっと久しぶりです。なんだかんだあって、昨年は一回も行ってない気がする。たぶん。
一昨年の11月に、特別展『御三家筆頭 尾張 徳川家の至宝』に行って以来じゃまいか?


さて今回の動機は、国博が正月元日からオープンしていることを今まで知らず驚き、その1月1日から始まる特別展が「百済」関連だったので非常に興味をそそられたのでした。
正月3ヶ日中に博物館に行くって、なかなかすごいでしょ?(何が?)
目玉(らしい)の、奈良の神社に奉納されている『七支刀』の展示は1月15日からなので、その日以降でも良かったんですが、正月3が日中に博物館に行く、っていうところに(自分的には)ポイントがあったので、行きました。
ちなみに、元旦に行けばもっと良かったんでしょうが、大宰府八幡宮の混雑を想像して避けました。自分は自分の運転する車で行きたかったのです。


家を出たのが朝8時。予想としては9時ちょいすぎに博物館の駐車場につく予定でした。
九州自動車道の大宰府ICまではすごく順調。しかし!インターを出ていつもの大宰府政庁跡前の通りに出ると、ザ・渋滞。
大宰府は正月2日目でも混むんですな。
そして、雪。
9時ちょい過ぎには政庁跡前を通り過ぎましたが、この時間帯の大宰府はけっこう大き目の雪が降ってました。
「これ、やばいんかなあ」と不安がよぎりますが、天気予報では気温は次第に上がってくる、とあったので大丈夫だろうとたかをくくりました。
渋滞も10分くらいで通過でき、国博駐車場についたのは9時40分くらい。国博の開場は9時30分からなので、少し遅れましたがまぁ良しです。


駐車場での様子はこんなん。



開場時刻直後なので、駐車場はまばらですね。もしくは、こんな日に来る人は滅多に居ないのか。
雪が降るなか、傘を片手に国博へ向かいます。
雪の中の国博もなかなか無い経験かも。



お正月と言うのに、またこんな雪の中ご苦労様です。。。
駐車場もまばらでしたが、館内も人の姿はまばら。これって結構おいしいかも。人が多いと展示をゆっくり見れませんからねえ。
チケットを買って、いざ2階へ。
入ってすぐにあるのが、これです。




残念ながら本物ではありません。再現文化財というのでしょうか。
この刀について、自分は結構最近まで誤解をしていて、この形状の刀は「草薙の剣」と思っていたんです。今回、その誤解を訂正しました。
七支刀のこの奇妙な形状はどうやって作るのでしょう。この再現刀は鋳型から作っているそうです。鋳造刀ということですね。(そんな言葉があるかどうか知りませんが)
普通日本の刀(普通刃物と言えば)と言えば、トンテンカンと金槌でたたいて鍛える、鍛造刀(そんな言葉があるかどうか知りませんが)が普通です。
もちろん古代にはまだそんな技術はなかったでしょう。この刀は百済から倭国(日本)に送られたものではないか、と言われています。
日本書紀には、「百済の王が七枝刀」(ななつさやのたち)と七子鏡や他の宝物を倭国に送り友好を願った」という記述があります。
この七枝刀が七支刀、と言うわけです。
日本書紀の記述は神功皇后の時代、となっているので4世紀(西暦300年台後半)のものになります。今からおよそ1700年から1600年前のもの。
Wiki見たらこの復元刀、河内国平作、らしい。
刀と一緒に送られた鏡は今どこにあるのかなぞですが、こういうものであったろうというのが展示されています。日本の古墳から発掘されたもの、韓国の国宝の鏡も展示されていました。




展示されている側が鏡の裏側になるのですが、7つのボッチがあります。だから七子鏡ではないか?というのです。
この7つのボッチを均等にデザインする技術はどこから来るのでしょうかねえ。偶数だと簡単ですが奇数は難しいですよね。
ちなみに、これらの鏡は正式(考古学的)には、獣帯鏡と呼ばれています。獣の文様があるためです。
写真のものは韓国の国宝です。
現在は復元刀が展示されていますが1月15日~2月15日の1ヶ月間は奈良石上神宮の本物(国宝)が展示される予定です。


(その2につづく)


...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。


写真は


「九州国立博物館」


ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしております。
(*転載とかしないでね。)


特別展『古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -』
九州国立博物館で2015年3月1日まで絶賛開催中!
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2015年1月2日金曜日

謹賀新年 2015

あけおめっ!


今年もよろしくお願いします。


月が変わったので、上の絵も変えました。どこでしょうねえ。
自分が週末ドライブによく行く場所です。

今年は熊本で年越しをしました。もしかしたら初めてかもなあ。
熊本に来て8回目の正月ですが、このうち2回は海外(しかも仕事)です。
これ以外は親の住んでいる群馬に行ってますね。2回は車で(スバル インプレッサWRX STi@2001)帰ってますし、2回は長距離バスで、1回は空路で行ってます。をを、やっぱ初めての熊本年越しだ。
(そんなことはござんせんでした。ブログを見直すと2008年と2010年は熊本越年。今回で3回目。。。物忘れがひどくなって。やーねえ)


家にはテレビがないので、今年はマラソン見ない年ですな。
正月といえばニューイヤー駅伝(群馬の家の近所を走りよる)と箱根駅伝でしょ?
見ちゃ寝、食っちゃ寝、そしてまた寝、みたいな年越しですもんねー。熊本におっても、あんまりかわらんねえ(w


昨日、1日は年越しまで本を読んだりネット見たり飲んだりして4時くらいに寝ました。
起きたのは昼過ぎ、つかもう日が傾いとったね。
メールでブックオフのセール(*)を知ったので、夕方ブックオフに行き、11冊も買っちゃいました。


これで1311円ナリ。
  (*ブックオフでは、1/1(木)~4(日)まで、ウルトラセールを開催中!)

いろいろありますねえ。今回は面白そうなラノベがなかったので、入ってません。
浅井次郎さんと池澤夏樹さんと角田光代さんのは短編集です。
「クライマーズハイ」は日航123便関係。NHKでドラマにもなりましたね。
高橋さんの「天を衝く」は九戸政実関係。え、すげーメジャーな武将ですよ?
2巻目がなかったので、どこかで探して買う予定。
いずみことのはさんのはよくわかりません。これどうやって読むのだろう。平行読み?(中を見た人しかわからないだろうなあ)
あとは中国もの。時代的には近いんじゃない?三国時代末期と、隋唐って。。。。
あ、南北朝時代があるから200年近く違うのか。
まぁ、卑弥呼の時代と遣隋使には、300年くらいの開きがあるからな。
とりま、3月くらいまでには消化するでしょう。


そして、今日は大宰府の国博に行ってきました。この話は別項で。