2015年1月7日水曜日

温故知新 『日本発掘展』から

津波、と言う言葉。今では日本だけでなく、「Tsunami」として海外でも通じる言葉になっています。
そのきっかけは、インドネシア・スマトラ島沖地震の衝撃的な被害が大きく影響しています。
そして2011年3月11日の東日本大震災では、津波の恐怖を改めて思い知らされました。


大宰府の国博で現在開催中の特別展は「古代日本と百済の交流」ですが、同時開催で「日本発掘展」が開催されています。
これは毎年の考古学上の発掘成果を一般に知らせるべく行われているもので、2014年で20回目の節目を迎えました。
これを記念して、日本を代表する発掘成果を展示することになったそうです。
合わせて、東日本大震災の復興事業に伴い行われた発掘調査結果やその活動を紹介しています。


今回特に取り上げたいのは、ここで展示されていた高知県の石碑についてです。
東日本大震災の記録は、4年が経とうとしていますが今でもYoutubeなどで動画記録として残っており、当時の地震や津波の様子、おびえたり、気持ちが高ぶった人々の姿を伝えているのを見ることが出来ます。
最近、自分は震災当時のネット動画を見あさってました。(震災当日、海外滞在。)
遠い昔、テレビはおろか写真もない時代、記録とは口伝であり文書であり、石造物への彫文でした。
この高知の石碑もそのひとつで、安政地震(1854年12月24日)の際の津波で多くの人命が失われたたことに対する供養塔であり、かつその被害状況や得られた教訓を後世に伝える記録としての役割を持っています。
石碑には表に南無阿弥陀仏、大きく彫られてあり一見墓石のようでもあります。
その経文の横から文字が刻まれており現代語訳したものが以下のものです。


安政元甲寅年の十一月五日申の刻に大地震が発生。
それにより発生した津波が八、九度襲い、残る人家は僅(わずか)に六、七十軒で宇佐・福島合わせて死者七十余人としている。
宇佐は前が高く、後ろが低く、東西の低地より汐が入り込み、逃げ道を取り巻く故、宝永地震(宝永四年(1707)十月四日、午後二時ころ発生)で多くの人が流死したというとの遺談を信じて、取りあえず山手に逃げ登ったものは恙(つつが)なく。衣食を整えたり、慌(あわて)て船に乗った者は、津波の犠牲になった。翌日には、救援米が出されて有り難いことであった。後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰(えら)び逃げよ。家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉(ことごと)く死を眼の前にみたことを言い残す。
二つの地震・津波の溺死者の人の菩提を弔うために衆議してこの碑を建てた。



高知の土佐市にあるこの石碑の名は萩谷地震碑というそうです。
高知に限らず、この震災で津波にあった西日本各地にこのような津波碑、地震碑が建てられて、現存しているそうです。
この碑文にもありますが、過去の経験を忘れないことは大事なことです。
安政地震の際も150年近く前の宝永地震の津波被害の教訓が恐らく父から子、子から孫へと伝えられ、山手に逃げたものは助かった、とあります。


後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰び逃げよ。
家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉く死を眼の前にみたことを言い残す。



先人の遺言は貴重で、重いです。
何よりも、生き延びることが大事、と伝えているこの記録を自分たちは後世に伝える役目があるのだと感じました。


残念ながら写真はありません。
津波碑、地震碑でググると、それなりに行き当たりますので、興味のある方は調べてみてください。




特別展を見て、その後3階の常設展をさらっと見回って、特別展示の「初音の調度」を見てから帰りました。(国博で見るのは2回目。)
帰宅後、国博のサイトで紹介されていたチケットケースの存在を知りましたが、後の祭り。ゲットしそこねました。(泣

時計を見ると昼の13時チョイ前。
大宰府に着いた時は激しく雪が降ってましたが、この頃になるとぱったりやんで、ご覧の通り。






まったりしながら帰りました。












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