2013年2月26日火曜日

楚の孫叔敖からの~ヒツの戦い



有陰徳者、天報以福 の続きです。


楚の令尹(今の日本でいえば総理大臣のような役)孫叔敖は中国の春秋時代の人です。
その時の楚王は荘王で、歴代の楚王の中でも最も名君と呼ばれた人です。
春秋時代に名君と呼ばれる人は他にもいます。
個人的には春秋時代を通じて自発的な名君と言えるべき人はこの荘王だけではないかと思います。
それ以外の名君は補佐役が卓越していただけではないかとね。


その時代、中国は名目的には周王朝の名のもとに統一されていますが、実際は各地に封じられた君主が覇を競っており、周王は王とは名ばかりの勢力しかありませんでした。
(天皇や将軍はいるものの、実際の統治は地方君主が行っていた日本の戦国時代と似たようなものです。)
また、この時代に「王」という名乗りを許されているのは周の王だけのはずですが、楚は勝手に王位を名乗っています。
荘王の時代、実力のある国は南の楚と北の晋でした。
晋と言えば、文公によって春秋時代の覇者となった大国で、それは荘王の祖父の代の出来事でした。(文公が即位したのは荘王即位のおよそ20年ほど前)
文公の話は宮城谷昌光さんの「重耳」に書かれています。(重耳=文公)
 
その間に挟まれた国々は、ある時は晋に味方し、ある時は晋を裏切って楚に付いたりしていました。
大国に挟まれた小国と言う意味で、鄭と言う国を見ていると、今の日本と重なるのですが。
(鄭も日本も小国ではありませんが、2大国との相対で見れば小国です。)

荘王はヒツの戦いにおいて晋に大勝し、覇者と呼ばれる実力トップの国になります。
(*ヒツは必の右にオオザトがついた文字=邲 鄭国内の地名)
晋軍の内部にはこの戦いの前に不利を悟って反対する一派がありました。
その筆頭は晋の士会です。范の地を治めていたので范会とよばれることもあります。
彼の話は、宮城谷昌光さんの「沙中の回廊」に出ています。
この士会は、敵国である楚の宰相孫叔敖の政治手腕や人柄を絶賛してます。
結局戦になってしまい、晋軍は不意を突かれた形になって文字通り崩壊します。
ただ、反対派だった士会が率いる部隊は動揺せず、晋軍で唯一、兵を損ねることなく自国へ戻ることができました。

このヒツの戦いでは楚軍の軍中に令尹孫叔敖も参加しています。ちなみに言えば、晋軍の司令官は大臣クラスですが、楚軍は荘王自ら率いていました。
孫叔敖もこの戦いには当初反対しており、出来る限り戦にならないように活動します。

この戦いの楚軍には伍参も参加しています。
彼は一枚板ではない晋軍の内情を知って積極的に攻撃を主張します。

この伍参の子は伍挙といい、荘王に寵愛されます。また伍挙の子の伍奢は、荘王の孫の平王の代に王子の養育係(太傅)になります。
しかし伍奢の代に楚の伍家は取り潰しにあい、彼の子伍子胥のみ生き延びて南の呉の国へ逃れ復讐の鬼となります。楚には屈原で知られるように激情家が多いのですが、伍子胥もまさに激情家のお手本と言っていい人でした。
伍子胥が才能を見出して呉王に推挙したのが孫武で、後世に彼の著作は「孫子」として中国のみならず、世界中で読まれるほどの影響を与えます。

ヒツの戦いは紀元前597年に起きた事件です。今からざっと2600年前です。





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