2015年8月20日木曜日

国東半島を巡る旅(2015夏) その3

前回からのつづきです。

国東半島を巡る旅(2015夏) その1

国東半島を巡る旅(2015夏) その2

都甲の金宗院にある吉弘一族の墓石。


(2015.8.1 金宗院の墓石、国東塔など byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO400 1/60)


吉弘氏家系図と大友家相関図


19歳で戦場の露となった吉弘氏直には息子がいました。この戦いのときには恐らくまだ乳飲み子で都甲の地にあったでしょう。
一族の後見を受けて成長しますが、しばらく吉弘氏は雌伏の時代を迎えます。
この乳飲み子が後に大友義鎮(宗麟)の代で、頭角をあらわし「大友の三老」の一人として重用される吉弘鑑理になります。
彼は名将と呼んでいい人物でした。
三老のほかの二人は、戦の鬼・戸次鑑連(べっきあきつら、後の立花道雪)、外交で辣腕を振るった臼杵鑑速(うすきあきはや)です。
鑑理は肥前竜造寺討伐の陣中で病を発し、翌年病没。


吉弘氏の根拠地、都甲の風景


(2015.8.1 都甲 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)


吉弘一族の菩提寺、金宗院


(2015.8.1 金宗院入り口 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)



(2015.8.1 金宗院全景 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)



(2015.8.1 金宗院由緒 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)



(2015.8.1 石造仁王像と羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)



(2015.8.1 羅漢像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)



(2015.8.1 石板レリーフになっている六地蔵尊 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO500 1/160)

鑑理の子、つまり氏直の孫、吉弘鎮信、鎮理兄弟も都甲の地で生まれ育ちます。
次男の鎮理は、後に筑前岩屋城で島津の大軍を相手に壮烈な玉砕戦を行い、大友家の意地を見せ島津を悩ませた高橋紹運その人です。
豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と呼ばれた立花宗茂も都甲の地で生まれ育ちますが、彼は高橋紹運の実子(立花道雪に乞われて養子となる)、つまり氏直の曾孫になります。
紹運の兄鎮信は耳川の戦いで島津相手に討ち死。
その子が統幸(宗茂の従兄弟)で、彼も氏直の曾孫になりますが、彼もまた曽祖父や祖父、叔父と同じく大友家に殉じる戦いに臨みます。
それは関が原の合戦時、九州豊後国での裏番組となった、石垣原の戦い、です。

石垣原古戦場碑




(2015.8.1 石垣原古戦場碑 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)

吉弘家は大友家の庶流一支族に過ぎませんが、一族を挙げての鉄のような比類のない忠義魂はすさまじいものがあります。
私がその血に触れたのは、大宰府の奥にある岩屋城での高橋紹運の文字通り壮烈な戦いぶりを知ったときでした。
なぜ、この一見無駄のように思える篭城戦に命を懸けねばならなかったか。
調べると、彼の兄鎮信は耳川の戦いで壮烈な討ち死にをしていますが、毛利氏との戦い(多々良浜の戦い)での戦功を思えば父や弟に劣らずの名将ぶりです。
その戦いぶりは猛将と言ってよく、その姿は大村山を一目散に駆け下り大内の大軍をものともしなかった祖父氏直とかぶります。
大友方からすれば決して負け戦ではなく、結果的には勝ち(侵攻してきた大内軍を追い返した)を拾った勢場が原での、全身敵の矢で針鼠になりながらも戦った吉弘氏直の壮烈な戦いぶりが伝えられていたのではないでしょうか。
戦に勝ち負けはつき物で、どのように戦いに臨んだか、が重要。
とすれば、「勢場ヶ原の戦い」と言う伝説のようになった戦いで、ご先祖・氏直の勁烈な姿が、理想の武士像として彼の子から孫へ連綿と受け継がれて来たのではと思うのです。
高橋紹運の岩屋篭城は、衰退していく大友家の中にあって、結果ではなくその姿勢を重視するがゆえの当然の帰結だったのではないかと思い至ったのです。
吉弘家の忠勇の魂、その典型は耳川の鎮信であり、岩屋城の紹運であり、石垣原の統幸であったでしょう。そしてその原型が勢場の氏直にあったとすれば、私にとっては納得がいきます。
吉弘氏直という人を思うと、若さゆえの過ちによって惜しまれる死を迎えますが、仮に勢場で命を落とさなければ吉岡宗歓と並ぶ大友の柱石になったのではないでしょうか。

つづく

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