2015年8月27日木曜日

国東半島を巡る旅(2015夏) その4

吉弘統幸が活躍する石垣原の戦い篇です。
2015年夏の国東半島を巡る旅ブログも、いよいよこの回が最終回です。

国東半島を巡る旅(2015夏) その1

国東半島を巡る旅(2015夏) その2

国東半島を巡る旅(2015夏) その3

最後の回で今更ですが、今回の旅の概要です。

初日、熊本を出て国東に向かう途中、開館して間もない大分県立美術館(OPAM)に寄りました。
翌日(8/1)から進撃の巨人展とか「描く」マンガ展が開催されるため、その準備中といった、いそいそとした雰囲気でした。
進撃の巨人の作者は大分県出身らしいです。


(2015.7.31 大分県立美術館OPAM1 byNEX5N SEL24F18Z F11 ISO100 1/100)



(2015.7.31 大分県立美術館OPAM2 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)



(2015.7.31 大分県立美術館OPAM3 byNEX5N SEL24F18Z F6.3 ISO100 1/80)



(2015.7.31 大分県立美術館OPAM4 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)


吉弘氏直を偲んで山香町大村山麓の勢場が原の古戦場や立石峠を巡った後、国東半島側に向かい、有名な磨崖仏と国宝の寺を巡りました。
ちなみに日本のなかで大分県は磨崖仏が多い県です。中でも国東半島には多くの磨崖仏があります。
熊野磨崖仏


(2015.7.31 鬼が一夜で築いた石段を登る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1000 1/60)
拝観料を払う受付で「杖」を勧められます。
登りではあまり必要ないのですが。


(2015.7.31 不動明王像 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)


(2015.7.31 如来形像 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)
どちらも平安時代後期の作



(2015.7.31 登ってきた石段は帰りに下る byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO200 1/60)
受付で勧められた「杖」。下りで威力絶大!



(2015.7.31 元宮磨崖仏 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/60)
室町時代の作

九州で最古の木造建築物の阿弥陀堂がある富貴寺。
この阿弥陀堂は国宝です。


(2015.7.31 富貴寺 門 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/60)



(2015.7.31 夏の富貴寺 国宝阿弥陀堂 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/60)

巡った後に泊まった宿は豊後高田市香ヶ地町の海沿いにある宿。
宿の静かな雰囲気が心地よく、夕食、朝食が美味しかったです。


(2015.7.31 民宿しおじ byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/60)


(2015.7.31 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO160 1/400)

これに追加で鳥天と茶碗蒸しが付きます。


(2015.7.31 マテ貝 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO250 1/160)
国東のマテ貝は絶品でした。


(2015.8.1 朝食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO640 1/160)



二日目、午前中に吉弘一族の地である都甲を回りました。
その後、両子寺を巡り、午後は別府市にある石垣原の古戦場巡りをしました。
吉弘統幸の観海寺の陣を車で回った後、大友義統の本陣があった立石付近から七つ石、吉弘神社を経て、黒田軍の本陣があった実相寺山付近を巡って立石に戻るまでを徒歩で歩き回りました。
車で移動しているよりも歩いているほうが長かったような一日。

かつての六郷満山中山本寺である両子寺(ふたごじ)


(2015.8.1 両子寺 byNEX5N SEL24F18Z F8.0 ISO100 1/80)
両子山中腹にある天台宗の名刹718年の創建


(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)



(2015.8.1 両子寺 護摩堂 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)
寺、なのに、神宮霊場、とはこれいかに。


(2015.8.1 両子寺 仁王像 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO320 1/60)
江戸時代後期の作

歩きつかれた二日目の夜は別府の温泉に浸かって癒し、翌日帰途につきました。
二泊三日の旅という形態はなかなか新鮮でした。ゆっくり出来てよかったです。(恐らく今までなら二日目夜に強行軍して帰宅してた。)



(2015.8.1 別府の宿 byNEX5N SEL24F18Z F5.6 ISO100 1/80)



(2015.8.1 夕食 byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO1600 1/160)



(2015.8.1 夕食のお品書き byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO800 1/160)



(2015.8.1 里流とむやむくんとBeer byNEX5N SEL24F18Z F4.0 ISO2000 1/160)


さて閑話休題。
石垣原(いしがきばる)の戦いです。

大友宗麟の子、義統は愚鈍とかバカ殿といった言葉が人間の姿をしているような、そんな殿様でした。少なくとも私にとっては郷土の殿様ながら、一向に愛着がわきません。
豊臣秀吉による九州征伐の後に島津氏に蹂躙された自国領土のうち、豊後国一国だけはなんとか安堵されたものの、その後の朝鮮半島出兵(文禄の役)の際の失態で改易。
この失態とは、義統が受け持っていた地域の隣で戦いがあり、味方が大敗。この敗報が義統の陣に伝わり、近侍していた家臣の吉弘統幸は懸命の進言するもバカ殿・義統は聞く耳持たず、なんと一戦もせずに敵前逃亡。
その後の豊後国は分割され、秀吉恩顧の小粒な武将による支配が始まり、その後江戸時代を通じて分割されたまま統一支配されることはありませんでした。
大友家の家臣は、その土地に居ついて新たな支配体制に組み込まれるものや別の土地に移って別家に仕官するもの、さまざまで散り散りになりました。
バカ殿・義統は秀吉のもとで幽閉され、その嫡子・義乗は徳川家に預けられます。
秀吉死後、豊臣家と徳川家の対立が深まる中、解放された大友義統は豊臣方の誘いを受けます。
関が原に向かって全国の武将が集まる中、義統は豊後国別府の浜に上陸。近隣の旧臣に声をかけ兵を募ります。
吉弘統幸は主君の改易後、柳川城主で従兄弟の立花宗茂の元に身を寄せ2000石で仕えていましたが、義統の嫡子・義乗が家康に従って上杉討伐に従軍すると聞いて駆けつけようとします。
その途中で、このバカ殿に会うのでした。
統幸はここでもまたバカ殿に時流を説いて、家康の東軍につくべしと説得しますが、西軍から「豊後・豊前」の2カ国を約束されて浮かれていたバカ殿はここでも賢臣の声を無視します。
おそらく、主君の意思に背くとは不忠者よ、くらい言われたのかもしれません。
吉弘家の者にとって、不明とはいえ主君に「不忠」と言われるほど切ないことはなかったでしょう。
やむなく、このバカ殿に従うことになるのです。
恐らくこの時点で彼は、この後に待っている結果よりも吉弘家の魂と自らの武名のもとに突き進むことに義を感じ決断したのだと思います。
少なくとも、主家の大友家は世継ぎの義乗が東軍に属している以上、存続の可能性は高かったからです。

一方、九州の動きは黒田如水が中津で兵を挙げます。
彼は秀吉死後直後から既に徳川方(東軍)に付くことを選択しており、東軍の勢力が弱い九州でいかに効果的に(家康に対して)働きを見せることが出来るか、策をめぐらしていました。
それまで溜め込んでいた蓄財を投げ出し浪人を雇い瞬く間に9000人もの兵力を集めます。

別府に上陸した義統一行は旧大友家臣に声を掛け立石(別府市立石)に陣を張ります。
近隣の東軍勢力は杵築で細川家の飛び地でした。
義統勢力はまずこれを攻め落とすべく、杵築城に軍を派遣します。
城を守るのは細川家家臣でも名将の松井康之で、杵築城自体も天然の要害でした。
松井康之は非常に有能な武将で、陪臣の身ながら秀吉から石見半国18万石を与えられそうになったことすらあります。(もちろんこれは辞退しています)
さすがに満足な兵力もない大友側はこれを攻めあぐね、黒田軍来援の報を聞き立石に引き上げます。

黒田軍の先遣隊と杵築城の勢力が合流し、義統が陣を張る立石方面に軍を進めます。
大友軍本陣があった立石と、黒田・杵築の合同軍が陣を張った実相寺山の間の距離はわずかです。
いよいよ開戦の火蓋が切られたのは慶長5年9月13日。関が原の戦いの二日前のことでした。



(2015.8.1 石垣原合戦 吉弘統幸陣所跡 byNEX5N SEL24F18Z F9.0 ISO100 1/100)



(2015.8.1 吉弘統幸陣所跡から石垣原方面の眺め byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)



(2015.8.1 石垣原(現:別府市別府市石垣西2丁目付近) byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/100)


緒戦では吉弘統幸が囮となって敵を立石付近におびき寄せ、待ち伏せていた兵と統幸自身により半包囲にして打ち破るなど大友勢が優勢でしたが、兵力の差はいかんともしがたく、午後には大友側は敗色濃厚になっていました。
その日の夕方には勝敗は決し、大友義統は自刃しようとしますが家臣に止められ降伏。
吉弘統幸は7度も出撃し奮戦しますが、戦いの中で力尽き、石垣原にある七つ石で自害。享年37。


(2015.8.1 吉弘統幸自害の地 七ツ石 byNEX5N SEL24F18Z F10 ISO100 1/100)


明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影
(吉弘統幸 辞世の句)

吉弘がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。
(黒田家譜より)


(2015.8.1 吉弘神社 byNEX5N SEL24F18Z F13 ISO100 1/125)



(2015.8.1 吉弘神社 吉弘統幸の墓 中央の石板 byNEX5N SEL24F18Z F4.5 ISO100 1/60)

今回の旅で、世間では吉弘統幸のほうがメジャーということになっていて驚きました。
都甲の地でも吉弘統幸の幟がいっぱい。
地元の人に聞いたら、大河ドラマ(「軍師官兵衛」)の影響だそうです。
TVを見てないので全く知りませんでした。

都甲に廃校になった小学校の建物を利用した歴史博物館があります。
そこで、管理している方に現在の都甲のお話をお伺いできたのは予想外のうれしいひと時でした。
とても知りたいと思っていた氏直の、またその子鑑理や、孫の鎮信、高橋紹運、ひ孫の立花宗茂が生まれ育った都甲の同じ空気を吸い、同じ風景や空を眺めることが出来たことが何よりも良かったです。
都甲の風景は、恐らく秋の紅葉の時期になると一段と美しい気がします。
またいつか、秋の風景を楽しみに訪れたいと思います。


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