2017年4月11日火曜日

近世宇土城

宇土古城の隣にある宇土城址。
基礎部分は小西行長の手によるものですが、その後関が原の戦いで小西行長は敗戦し、領地は加藤清正の手に渡ります。
清正の手によって多少改修されたようですが、清正の死後、破却され廃城となったようです。
加藤家が改易となり代わりに細川家が肥後の国主となり、宇土には細川家の分家(細川忠興四男立孝の長男行孝)が入って宇土藩が成立するのですが宇土の城が復活することもなく現代に至っています。
小西行長は、元は薬問屋の倅ですが、初め備前の謀将宇喜多直家に見出され武士となり、その後豊臣秀吉に気に入られ出世し、城持ち大名となります。
キリシタン大名としても有名です。
隣の宇土古城との比較で、近世宇土城とか単に宇土城というと、こちらの城跡を指します。
古城目的で来たのですが、こちらの城もぐるっと回ってきました。
本丸には小西行長の像がありました。


(2017.3.5 本丸の小西行長像 by α6000 SEL24F18Z  F 8.0 ISO100 1/125)


なにかの本に書いてあったのですが、この像が出来上がった時に地域の中で小西行長に反発する人々がいて、すぐにお披露目できず除幕式から2年間、トタン板で覆われていたそうです。
悲しすぎる。
今では宇土市のゆるキャラにもなっているので、歴史の見直し作業が進んでいるのかもしれません。



この城跡の見所は、その縄張りと石垣でしょう。
縄張りも石垣も、残念ながら大半は埋まっており、見えている部分は一部でしかありません。
ここは想像をたくましくする外ありますまい。(見所なのに。)
石垣はかなり立派な積み方です。


(2017.3.5 清正による石垣 by α6000 SEL24F18Z  F 5.6 ISO100 1/60)

案内板(上)によると、加藤清正が築いた熊本城の石垣と同じ積み方だそうです。
しかも見えているのは半分で、地上の高さと同じ高さの石垣が地下に眠って、、、いや埋まっているそうです。
案内板(下)の想像図にあるように、緑川から堀をひき大規模な外堀として町を入れ込んだ惣構えの城となっています。


(2017.3.5 本丸の案内板 by α6000 SEL24F18Z  F 6.3 ISO100 1/200)


堀はそのまま水運の河筋として使われることを想定しており、元々商人だった行長らしい発想です。
関が原の合戦の折、行長不在の間は行長の弟、小西隼人正行景が守っていました。
加藤清正は事情があり肥後に謹慎中で関が原の戦いに参戦できませんでしたが、家康とは頻繁に書状を交わし東軍であることを鮮明にアピールしています。
関が原とほぼ同じタイミングで豊後国では、以前書いた「石垣原の戦い」が始まり、清正は一旦豊後を目指しますが石垣原の戦いは黒田如水によって短期間で終結。
清正はこれを知ると、肥後に戻り小西行長領の肥後南半国の攻撃にかかります。
最初の目標が宇土城でした。


(2017.3.5 本丸の石垣 by α6000 SEL24F18Z  F 5.6 ISO100 1/60)


城下を焼き払いながら城を包囲しますが、行長の縄張りのによる城と、城将小西隼人、内藤如安の巧みな守りは簡単には落とせず、さすがの清正も持久戦を余儀なくされます。
しかし、その内、関が原本戦の結果や行長捕縛の知らせが宇土城にも到着し、万事休す。
小西隼人は自身の切腹と、城兵の助命を引き換えを条件に降伏開城。
鬼将軍清正を相手に一ヶ月も持ちこたえたのでした。


(2017.3.5 内堀跡 右側は後世の盛り土かな by α6000 SEL24F18Z  F 5.6 ISO100 1/60)


宇土城は清正の手に渡り、彼の隠居所として整備されます。現在見える石垣はその名残。
清正は豊臣秀頼と徳川家康の二条城での会見を取り持ち、その後帰国の途上で死去。
宇土城はそのまま手付かずになり、肥後の国主も加藤家から細川家へと移り代わります。
後世、細川家による宇土支藩が成立しますが、宇土城が使われること無く、島原の乱の影響もあって破壊が進みます。
宇土の城跡として満足な整備はされていないと思いますが、廃城されてずいぶん経っているので致し方ないでしょう。


(2017.3.5 内堀の石垣 by α6000 SEL24F18Z  F 2.5 ISO100 1/160)


本丸下の駐車場へ行く道はかなり細いです。
右側にある墓地は恐らく二の丸跡ではないでしょうかね。(道は掘割か)
肥後の代表的な近世城跡の一つではあるので、古城ともども、時間をかけても少しづつ整備してほしいですね。


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