2017年4月8日土曜日

宇土古城 その4

相良為続の領土拡張策の失敗とその死で、相良氏はしばらくの間、逼塞・停滞します。
しかし、次代当主長毎が優秀だったせいか、相良氏の歴史ではよくある継嗣にまつわる内紛は最低限に抑えられています。
宇土為光は馬門原の戦いの勝利以降、菊池家側の相続における混乱や、相良氏の退潮と為続の死に至る期間、ほとんど目立った活動をしていません。
菊池家相続の混乱は表面上は抑えられていましたが、水面下では当主武運に反発する勢力が宇土為光とのつながりを太くしていたと考えられます。

 
(2017.3.5 珍しい未完成の堀 by α6000 SEL24F18Z  24mm F 4.0 ISO100 1/160)

相良為続の死の翌年(1501)、菊池本家では当主武運が玉名巡視の留守中にクーデターが発生。
文献では隈部忠直によるクーデターとしているものがありますが、忠直の死はこの4年前(1497)であることがほぼ確実っぽいので、隈部氏のほかの誰かではないかと思われます。
忠直には四子あり、庶長子親興は宇野家養子、次男嫡子が元成が本家を継ぎ三男は重元、四男紀伊介朝夏は菊池武運と相良氏姫との婚儀をまとめかけた人物。
忠直の名乗りは常若丸、兵部大輔、義雲慈孝、上総介で、この本家継いだ元成(民部少輔, 但馬守)の子の親朝は、式部大輔, 素覚, 上総介です。
隈部一族で兵部大輔の名乗りをしている人はいない様で、上総介は孫の親朝、親朝の曾孫の親家、親氏しか見当たりません。
この頃の時代では、為光とか忠直というような名前(イミナ)で呼んだり記録することは少なく、通称や官名である場合が多いですから、もともとの記録は「隈部上総介が宇土弾正大弼(為光のこと)を迎えた」のような文言で、目にした人が「隈部上総介と言えば有名な忠直ではないか」と、別の文書に記録し残ったんじゃないか、と妄想しました。
と言うわけで、上総介で共通する忠直の孫の親朝が、クーデターの首謀者かもしれません。
実は、隈部家は一枚岩ではなく武運派、反武運派に分かれているようです。
本家筋の上総介親朝が反武運派である場合、隈部家の主流派は反武運派であったかもしれませんが、隈部家のなかでも居心地の悪い人は居たに違いなく、単に忠義心から主君に誠意を尽くす人も居たでしょう。
反武運派は隈部家だけでなく他の家臣にも存在したかと思われますが、菊池家きっての重臣である隈部家当主筋が反武運派に傾いたことでこのクーデターは成功します。
彼らは、武運に代わる菊池家当主に宇土為光を担ぎ出しだしました。


為光老人は宇土古城を出て隈府城に入り、念願の菊池肥後守為光となります。
さて、留守中に空き巣に入られた格好の菊池武運は玉名で兵を募り、肥後北部だけでなく菊池家につながりの深い筑後の国人衆からも兵が集まります。
そして、隈府城を取り返すべく進軍し隈府城の手前、袈裟尾原で菊池為光および反武運派の菊池家家臣の軍勢と戦になります。
この戦いでは、武運側の主だった武将が討ち取られており、伏兵もしくは予想外の方向からの奇襲、あるいは裏切りといったことがあったと予想されます。
相良為続を逼塞させた折の豊福から八代への快進撃を思えば、武運という人はかなりの戦上手と思われるのですが、いくら戦上手でも内部の混乱があると思うように戦えないものです。
伏兵や奇襲くらいでは戦上手の武運には通じないと思われるので、恐らくとんでもない予想外の裏切りがあったとしか思えません。
武運は命からがら玉名へ落ち延び、さらに海を渡って島原日の江の有馬氏のもとに身を寄せます。
それから2年後、有馬氏から兵を借り、さらに菊池家の武運派の諸将らの出迎えのもと、武運改め能運が玉名に上陸。
武運派の家臣の動静に目を光らせていた為光は、能運の玉名上陸に合わせて隈府城を出て迎え撃ちます。
戦いは菊池川河口の高瀬で行われ、この戦いでは為光が敗れます。(高瀬の戦い)
為光は一度隈府に戻ったのか、それとも故地の宇土にむかって一目散に退いたのか、わかりませんが、結果的には宇土に落ち延び、これを追った能運に抵抗しますが宇土古城も攻め落とされてしまいます。
宇土為光は落城のときに自害したとも、落城後筑後に逃れたものの捕まって殺害されたとも言われています。


(2017.3.5 千畳敷(本丸)から三城の眺め by α6000 SEL24F18Z  24mm F 4.0 ISO100 1/160)

宇土古城にはその後、城番として山鹿の城為冬が入りますが、当主能運がその後まさかの急死。
混乱の中、城為冬は山鹿の自領に戻り、宇土古城には名和氏(顕忠)が入ります。
ちなみに、この名和顕忠は、宇土為光の娘婿になっていました。
名和家(その後は為光の血も引く子孫)が宇土古城を支配し、その周辺を巡る戦乱が続きますが、時代が下って天正年間の肥後国人一揆の後に入国し肥後半国の大名となった小西行長が宇土古城最後の城主となります。小西行長は宇土古城のすぐ隣に新しい城を築いて移り住み、西岡台の宇土古城は廃城となったようです。


(2017.3.5 城の東側、腰曲輪付近の梅 by α6000 SEL24F18Z  24mm F 6.3 ISO100 1/80)

(おわり)

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