2013年9月18日水曜日

韓国出張のおまけ その2

スウォンファソン編で2013年春・韓国出張編の最後になります。
かなりボリュームが増えたので3回に分けました。今回は2回目。
(実はさらにボリューム増えたので2回目を分けました。今回は 前編 八達門から長安門まで です。)
デジカメ画像がほとんどです。



4月の半ばからひと月ちょいほど、韓国に出張していました。
休日にホテルの近所にある世界遺産「スウォン ファソン」に行って来ました。



 



●第二回、水原華城。 ファソン巡り(前編 八達門から長安門まで)



Korea_sakura
(2013.4.27 八達山入り口付近の桜? byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F3.5 ISO800 1/4000)



スウォンは漢字で書くと「水原」、ファソンは「華城」。
今から二百数十年前、18世紀末の李氏朝鮮王朝の王・正祖によって作られた城郭都市です。
それまでの朝鮮半島の中世的な築城技術の殻を破り、西洋の築城技術を取り入れ融合させた独特な景観があります。
具体的にはそれまでの石積みのみ(日本の中世城郭と同じく)から、一部レンガ積みを取り入れています。
華城、という名前。いいですね。とても好きです。



正祖の時代の朝鮮の都は今のソウルの地にありました。
中世朝鮮には両班(リャンバン)という貴族層が社会の支配層、既得権者となっており彼らは自身の権利を守る為に保守的にならざるを得ず、王でもその壁を突き崩すのは容易ではありませんでした。
ソウルの地にあった当時の都は、そうした既得権益者たちの巣窟になっていました。
正祖はそれまでのどの王よりも革新的な王でしたが両班の既得権の壁は厚く、思うように改革を進めることは難しかったのです。
彼はそれまで朝鮮社会を覆っていた閉塞感を抜け出す為、新しい都を作ることにしました。
その地がスウォン(水原)であり、築いた城がファソン(華城)ということになります。
しかし、残念ながらスウォンは新しい都にはなりませんでした。
あと一歩、というところで正祖は病死してしまうからです。
正祖の革新事業は残念ながらその後の反動で退潮し、両班はじめとする保守派の支配に戻ります。
その後約200年を経て朝鮮戦争が起こり北朝鮮によりソウルが奪われた際に、スウォン市は臨時首都になった時期があります。



さて、ファソン。
前回は八達門(パルダルムン)付近のマーケット情報でした。
ファソンは華城と書き、城ではありますが日本の近世城郭とは程遠く、スケールは異なりますがむしろ中国の城郭都市に近いです。
城壁が取り囲む中に街があり、王の住まう宮殿があります。
八達門の近くにこの城壁沿いを観光するスタート地点があります。
全体図はこんな感じ。



Map1



(ガイドに載っていたMAP)



Map2
(実際の華城 ぐーぐる先生)



Kumamoto_map3
(同じ縮尺の熊本市・熊本城付近 ぐーぐる先生)



外周は5.7kmあるそうです。
ガイド資料によれば2時間で全周を回る、と書いてあります。
後から思えばとんでもないです。
もちろん私はお金もなくヒマだったので、ぜんぶ、まるっと、ぐるっと、巡りました(苦笑
ちなみに、同縮尺の熊本城付近のMAPも並べました。



旧ファソン市街の西側には八達山があります。
高さ的には熊本市の弁天山くらいなので山というほど、そびえたつほどの山ではありませんが、ファソン全体を見下ろせる小高い山です。
ファソンの城壁の西側は峰に沿って走っています。つまり山の東半分はファソンの城内、ということになります。
八達山の東側、街側のふもとには山を背にして(日の出る方向正面を向いて)ファソンヘングン(華城行宮)という宮殿が置かれています。
ファソンの街はきっちりした条里制ではないようですが、宮殿の表に南北に走る大通りがあります。
街を取り囲む城壁の各方向に門があり、大通りの北側に長安門、南側にあるのが前項の八達門、東(正確には東北方向)に蒼竜門。西(正確には西北)華西門。
西側の八達山山頂と東側蒼竜門近くに守備の要(それぞれ西将台、東将台)があります。



中華風の風水術の影響があります。
背山臨水。
韓国ばかりでなく、日本でも中国風水の影響は大きく、昔の中華風を真似た街は風水術を気にしながら作られています。
昔、平安京と呼ばれた京都は最たるものでした。ただこれも中華風、というだけで本場のような版築によるそびえたつ城壁などはなかったようですが。
(現在の京都には臨水にあたる水が今はありません。昔は「巨椋池」というものがあったようです。)



チケット売り場があり、その前に民族衣装を着たおばさんがいました。
日本語はちょっとだけ通じました。



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(2013.4.27 八達門近くの八達山入り口 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F8.0 ISO100 1/250)



チケット売り場の横から城壁が走り始めています。
山に沿って作られている姿は壮観ですが、自分は既に万里の長城を見ているので、中国並なものを想像するとかなりちゃっちいです。
城壁の高さはあまり無い上に城の周りに堀(空堀、水堀)はないんですねえ。
防御力はどの程度あるんだろうか・・・



ここでチケットを買うのですが、よく見るとチケットを買わないで山を登っていく人たちがいます。
(買わなくても良いのか?)
後で聞いたら地元民は無料だそうです。
入場料は1500w(150円)です。安!



城壁に沿って階段を上っていきます。
城壁の高さは内側は2mから3m。外側は3mから4mくらい。切石積み、城壁には銃眼があります。
途中、物見や戦闘時に兵士が籠る小さい建屋や、屋根のない矩形のエリアがあります。「雉」(チ)と言うものです。



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(2013.4.27 南雉 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F8.0 ISO100 1/100)



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(2013.4.27 南雉の銃狭間 向こうに見えるのは八達門 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F8.0 ISO100 1/100)

「雉」に屋根がついたものが「舗楼」(ホロウ)です。
ローカルな守備の拠点になると思われます。
城壁の各方向に数か所づつありますが、大きさはそれほど大きくありません。
これより規模の大きい防衛拠点には砲楼と、空心墩(土偏に敦。)という塔が北側に2箇所づつ4か所あり、手が込んでいるつくりをしています。
北側3門の守備をサポートする役割があり十分考えられた設備だと思いました。
これとは別にさらに4箇所の角楼があります。
登りきると山上は割と平坦です。



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(2013.4.27 八達山登り道 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/60)



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(2013.4.27 西南暗門 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO160 1/60)



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(2013.4.27 西南角楼(華陽楼) byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO200 1/60)



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(2013.4.27 八達山登り切った平坦部分 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/160)



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(2013.4.27 西舗楼 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO400 1/60)



ここから西将台までが山上になります。
西将台は北方向の見晴らしがいいです。



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(2013.4.27 西将台からの眺め1北東 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/100)



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(2013.4.27 西将台からの眺め1南東 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/200)



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(2013.4.27 西将台 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO160 1/60)



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(2013.4.27 西弩台 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/100)



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(2013.4.27 西将台付近の花(つつじの一種?) byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F3.5 ISO100 1/400)



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(2013.4.27 西将台からの下り道 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F3.5 ISO100 1/400)
 



ファソンの北はソウルです。
この城にとっての仮想敵はどちらの方向から来ることを想定していたのでしょうか。
防御の厚さを考えると北側の防備が充実しています。
東、西の門はどちらかと言えば北側にあり、町の形も北側に開いた台形です。
敵は北側から来ると考えられていたのでしょうか。



西将台の先は山を降ります。城壁も山を下っています。
下りた先に西北の門、華西門があります。



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(2013.4.27 華西門 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/80)



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(2013.4.27 華西門正面 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/80)



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(2013.4.27 西北墩(土偏に敦) byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/80)



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(2013.4.27 華西門馬出(甕城)から空心を望む byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/200)



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(2013.4.27 華西門の龍 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO640 1/60)



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(2013.4.27 華西門馬出(甕城) byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F4.0 ISO100 1/1000)



門の前側が大きく湾曲した城壁に囲まれており、日本の城郭技術で言えば、「丸馬出」そのものです。
馬出し曲輪自体を一種の楼閣にし、出城のような形にしたのが、大坂冬の陣で有名な真田丸です。
これは武田流(甲斐の武田信玄)の築城技術ではないかっ!と、興奮してしまいました。
華城は18世紀末。武田流築城術は16世紀末。
むむむー、なんてな。
築城術なんていうのは、突き詰めればどこの国でも似たようなものになるのかもしれません。



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(2013.4.27 北舗楼 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/80)



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(2013.4.27 華城北辺の道 後ろの山は八達山 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/250)



華西門から東進すると、北の玄関、長安門(チャンアンムン)に到着します。
かなり威容がありますね。
現存する韓国国内の城門の中で一番大きい城門だそうです。
これを作った正祖が当時の都(漢陽、ソウル)から来るときに通る門で、いわば正門と言っていいようです。
こちらも、防備は厳重であり、華西門でも見た甕城(丸馬出し)構造あり、入り口は正面になっているのでやや効果は半減だが櫓あり。
ちなみに、この日本で言えば馬出曲輪と呼ぶ構造は、「甕城」と呼んでいるそうで、当時の正祖の側近で実学者の丁若鏞(チョンヤギョン、ギョンは金偏に庸)の設計らしい。



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(2013.4.27 長安門正面付近 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO100 1/60)



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(2013.4.27 長安門正面付近 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO200 1/60)



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(2013.4.27 長安門の龍 北門だから?背景は黒 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F8.0 ISO800 1/60)



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(2013.4.27 甕城内からの長安門正面 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO200 1/60)



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(2013.4.27 長安門甕城内から甕城裏側 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO160 1/60)



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(2013.4.27 長安門甕城内にある解説 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO200 1/60)



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(2013.4.27 北東敵台から見た長安門 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO100 1/60)



門の左右からも門に取り付いた敵へ攻撃が出来るように、「敵台」という防衛拠点があります。
先述した「雉」とほぼ同じ構造です。



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(2013.4.27 北西敵台 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F14.0 ISO160 1/60)



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(2013.4.27 北東敵台 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/100)



華城編が長くなりそうなので、ここで分けました。



写真もやや膨大。
この先は、後編 華虹門から南水門まで に続きます。







2008夏 釜山旅行 初日 
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2008/08/post_1867.html
2008夏 釜山旅行 二日目 その1
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2008/08/post_65a8.html
2008夏 釜山旅行 二日目 その2
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2008/08/post_9584.html
2008夏 釜山旅行 三日目
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2008/08/post_932a.html



韓国出張の日常 たぶんその1
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/05/post-8a09.html
韓国出張の日常 たぶんその2
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/05/post-455b.html
韓国出張の日常 たぶんその3
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/06/post-733f.html
韓国出張の日常 たぶんその4
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/09/post-f251.html
韓国出張の日常 その5
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/09/post-e26b.html



韓国出張のおまけ その1
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2013/09/post-c8c4.html





2013年9月14日土曜日

韓国出張のおまけ その1

スウォンファソン編で2013年春・韓国出張編の最後になりますが、かなりボリュームが増えたので3回に分けました。
といってもデジカメ画像がほとんどです。(のつもり)



4月の半ばからひと月ちょいほど、韓国に出張していました。
一か月ちょいの出張で後半の二週は週末お休みを頂くことが出来ました。
ばたばたの出張だったことと資金不足の不安もあってこの期間にソウルに行くことはありませんでした。
もっぱらホテルの近所にある世界遺産「スウォン ファソン」に行ってました。



第一回、ファソン周辺。



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(2013.4.27 世界遺産 華城 碑 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/60)



スウォンは漢字で「水原」。地名です。
ファソンは漢字で「華城」。
18世紀末、李氏朝鮮王朝の王、正祖によって作られた、城郭都市です。
それまでの朝鮮半島の中世的な築城技術の殻を破り、西洋の築城技術を取り入れ融合させた独特な景観があります。
具体的にはそれまでの石積みのみ(日本の中世城郭と同じく)から、一部レンガ積みを取り入れています。



ホテルから歩いて30分ほどでファソンの入り口、八達門(パルダルムン)に到着。
スウォン(水原)市の旧市街がそのまま世界遺産「ファソン(華城)」であり、この付近、特に八達門の東側を流れる水原川沿いには古くからあった商店街が発展したアーケード街などがあり、水原川沿いの通り沿いにも商店が並んでいます。



以前釜山でも見かけましたが、韓国では露店が多いです。
韓国のおばちゃんが路上でお店を拡げ、取れたての野菜などを売っています。
その風景はここスウォンでも同じでした。



自分が子供のころは、日本でもこういう風景は普通だったような気がします。
今でも田舎に行けばありますかね。高原の観光地の路上では露店でトウモロコシやフルーツを売っているところ、見かけますね。
でもさすがに人の多い街中で、日常的に使う生鮮食品の露店は少なくなりました。
韓国での露店での客層を見ていると年齢が高いので、スウォンのような都会でこういう風景はいずれなくなるのかもしれません。



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(2013.4.27 八達門 表 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F3.5 ISO100 1/500)



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(2013.4.27 八達門 裏 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F8.0 ISO100 1/80)



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(2013.4.27 水原川沿い 池洞橋付近 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/100)



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(2013.4.27 水原川沿い商店街 池洞橋付近 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO200 1/60)



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(2013.4.28 水原川沿い商店街 高麗人参?池洞橋付近 byNEX5N Tamron 18-200 III 21mm F3.5 ISO100 1/640)



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(2013.4.28 道沿いのお店 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F7.1 ISO100 1/60)



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(2013.4.28 モッコル総合市場 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F7.1 ISO1250 1/60)



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(2013.4.28 モッコル総合市場 キムチ各種 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F7.1 ISO800 1/60)



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10(2013.4.28 露店のおばちゃん byNEX5N Tamron 18-200 III 21mm F3.5 ISO125 1/60)



ある日ファソンヘングン(華城行宮)に向かう途中、アーケード街の出入り口付近の橋の上で人だかりがありました。
近寄ってみると、時代劇(と言っても韓国の)さながらの兵士たちが。
そして中央には王様が下々の民と談笑しながら王妃と並んで写真を撮っていらっしゃる・・・
どうも毎日?あるいは毎週末?王様行幸のイベントやっているようです。
そのスタート地点がこの橋の上で、街中を練り歩いてファソンの中心部にある宮殿=ヘングン(行宮)にお向かいになられるようです。
(実はこのあとゴール地点で再びお見かけしました(別項にて))



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(2013.4.28 池洞橋のイベント byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F7.1 ISO100 1/125)



駐車場がほとんどないため、みな路駐です。
韓国の路駐の凄さはハンパないです。これはスウォン市に限らず、韓国内どこでも路駐が激しいようです。
韓国の人に聞いたんですが、路駐そのものは法律違反なのですが車の数に比べて駐車場が圧倒的に少ないため取り締まりは比較的緩やかになっているそうです。
しかし、それでも一応ルールのようなものはあるみたいです。
むむむ・・・わからん。



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(2013.4.28 水原の路駐 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F5.6 ISO100 1/60)



スウォン旧市街付近の建物はレンガ造りの家をよく見かけました。
世界遺産に合わせたものかと思ったんですが、韓国では伝統的な家の構造として「オンドル」という床暖房付の家があり、このためレンガ造りの家が多いようです。(と、ネットを調べると書いてあったのです。)
でもその煉瓦って西洋的な赤茶色の煉瓦なんですよねえ。



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(2013.4.27 水原の町並み byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F3.5 ISO100 1/500)



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(2013.4.27 水原の町並み byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/160)



やや時代を感じさせるレンガ造りの家が多いファソンの街ですが、旧市街の外には現代的な高層マンションの団地が数多くあります。
200年前に建てられたファソンの城郭の外側、すぐそばに立ち並んでいる高層マンションの群れはやや不思議な風景ですが、スウォンは首都ソウルのベッドタウンになっています。
横浜市の港北ニュータウン、東京多摩ニュータウンとか練馬・光が丘、大阪千里あたりの風景に似ている、と言う気がします。



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(2013.4.27 水原の高層住宅 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F13.0 ISO100 1/100)



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(2013.4.27 城壁の向こうの高層住宅 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F11.0 ISO100 1/160)





2008夏 釜山旅行 初日 
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2008夏 釜山旅行 二日目 その1
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2008夏 釜山旅行 二日目 その2
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2008夏 釜山旅行 三日目
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韓国出張の日常 たぶんその1
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韓国出張の日常 たぶんその2
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韓国出張の日常 たぶんその3
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韓国出張の日常 たぶんその4
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韓国出張の日常 その5
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2013年9月12日木曜日

我 愛 上海

今週は上海です。



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(2013.9.11 黄浦江 byFinePix F200EXR  F 3.3 ISO800 1/4)



上海市内を流れる黄浦江。



上海市内のうち、この川の東を浦東(プートン)、西を浦西(プーシー)といいます。



この写真は浦東から浦西、なかでもいわゆる外灘(ワイタン)を見た景色です。



歴史的な建築物がズラーっと並んでいるんですよ。





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(2013.9.11 上海タワー byFinePix F200EXR  F 3.3 ISO800 1/10)



上海タワー、 またの名を、オリエンタルパールタワーとも言う。



東京スカイツリーが出来るまでは、アジアで一番の高さを誇った建築物。



この日は夕方に雷雨があって夜になっても雲が残り、上海の高層建築には時折雲がかかって幻想的な感じに見えました。



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(2013.9.11 I Love SH byFinePix F200EXR  F 3.3 ISO800 1/110)



アイラブ SH (上海)





この日までは、日本での日常と変わり映えのしない日々でしたが、現法のNさんが案内してくれました。ありがとー!!













2013年8月26日月曜日

伍子胥から范レイ~呉越同舟、臥薪嘗胆~

有陰徳者、天報以福


楚の孫叔敖からの~ヒツの戦い の続きです。

范レイのレイの字はチョー難しいので、気になる方はWikiでも見てください。
さて、楚の伍子胥が呉の国に亡命した、あたりまで書きました。
韓国出張の際に「范レイ」という題名の本を読んだので、そこまで持っていこうかなと思いました。

さて、伍子胥。
彼は父や兄を殺し、楚の国でも名家だった伍家を取り潰した楚の国王平王と、王にそそのかした奸臣費無忌に対し、恨み骨髄です。
「このうらみ、はらさでおくべきか」と、魔太郎のようにつぶやいたかどうかは知りません。
南の隣国呉の国に亡命します。

呉の国は今の中国蘇州付近を領土としていました。
蘇州、いいですねえ。長江の河口付近の南側に位置するこの都市は、水運の町でもあり、東洋のヴェニス、なんて呼ばれたりしますね。

蘇州夜曲、という歌がありますが自分のイメージもこんな感じです。やっぱ李香蘭ですよ。
この曲を聴きながら、蘇州の古い町の中で運河の水面を見つつ、杯を傾ける・・・




その呉の国はこの時代では著しく後進国といっていいくらいの国でした。
領土も、蘇州付近を領するだけの小国です。
一方、楚は今の湖北省、湖南省にまたがる広大な領土を持ち、ちょっと前の王の代では中央で華々しく先進国のリーダーだった北の大国晋を戦で破り、大陸の覇者となった国です。
湖北省、湖南省にまたがる地域、だとわかりにくいかもしれませんが、ざっくり言えば黄河と長江の間の地域で、西は今の四川省の手前まで。東はもちろん海岸まで。(すごくざっくりです)

何で伍子胥はそんな国に亡命したんでしょう。
亡命して彼が仕えたのは公子光。
公子、とは王子のことですので、すなわち当時呉王だった僚の息子の光王子に仕えました。
伍子胥は公子光を支え、やがて彼を呉王にします。
新たな呉王の側近補佐となった伍子胥は後世、孫子と呼ばれるようになる孫武の登用を呉王に進め、呉国の国力増進に勤めます。
小国だった呉の国力でも、楚に太刀打ちできるような状況を待ち、作り出すのが孫武の兵法。
彼の采配により呉軍は楚軍に連戦連勝し、やがて楚の都郢(エイ)を陥落させます。
この時、実は伍子胥の恨みの対象だった楚王の平王はとっくの昔に死んでいました。
しかし、伍子胥は平王の墓を暴き、おそらく朽ち果てていた平王の死体に鞭をうって恨みを晴らす、という驚くべき行為に出ます。
死者に鞭打つ行為、とはまさにこのことですね。

実はこの頃、呉のさらに南の越の国に不穏な動きがありました。
長江の南に銭塘江という河があります。
毎年、8月の中ごろに逆流する、海嘯、という現象が起こることで有名ですね。
この銭塘江の河口付近の南岸に越の国がありました。
首都は会稽。今で言えば紹興市。紹興酒で有名な都市です。


呉と越。
隣り合った後進国同士の二国ですが、中が悪く、戦を繰り返していました。
呉越同舟、という言葉があります。
いがみ合ってても同じ目的のためなら協力することを言います。
単に、仲が悪い人たちが同じ場所に居合わせることも、呉越同舟って言い表しますね。


越の国は呉に比べてもさらに後進国。むしろ文化の及ばない野蛮な国とすら見られているような地域の国でした。
そんな国に卓越した政治家が二人、いや三人いたのです。


一人は計然。彼は范レイの師と言われる人ですが、司馬遷の史記にある貨殖列伝に名前が挙がるように、この時代の最先端を行く経済家でした。
野蛮な国といわれた越の国に、超一流の経済家が居るというのもすごいですな。

一人は文種(ぶんしょう)。かれは范レイと並び称される政治家です。

そしてもう一人が、范レイ。この時代の、越の国でのポジションは軍師というようなところでしょう。

私が読んだ本では、范レイが越の国に来る前は孫武の弟子であった、という設定があります。
(もちろん、越の国で頭角を現す前の范レイのことは不明である、というのが現在までの事実です)
時代は春秋時代の終わりごろ。
この時代のもっとも最先端を行く政治家、兵法家が3人も、このもっとも野蛮な国にいたのは奇遇でしょうか。

越軍は、楚国に遠征中で空に近い隣国呉に攻め入りました。
しかしこのときは孫武の兵法が范レイを上回っており、うまくいきませんでした。
ただ、従属国であるはずの越が呉に背いて空き巣に近い行為に及んだ件は呉王にとっては遺恨となりました。
その後、当時の越王が死に、その後を息子の勾践が継ぎます。
この混乱の時期に呉王は先年の恨みを晴らすべく、越に出兵しますがあろうことか呉王はこの戦いで死んでしまいました。

呉王は死ぬ間際に息子に越国に対する復讐を誓わせて息絶えます。
息子の夫差は父の恨みを忘れないため、寝心地の悪い薪の上に寝起きしたといいます。これが臥薪
呉王夫差は越の国に攻め込み、滅亡寸前荷まで追い込みますが、すんでの所で越王勾践を許し夫差の飼っている馬の世話役(いわば奴隷)として一命を助けます。
その後、勾践の日ごろの態度を見て心服したと思い込み、越の国に彼を帰してしまうのですが勾践の態度は見せかけでした。
かれは自分の国に戻ると復讐を誓い、苦い肝を嘗めて呉王に仕えていた屈辱の日々をを思い出していました。これが嘗胆
呉王と越王二人の復讐を忘れない行為から、臥薪嘗胆、という言葉が生まれたんですね。


さて、呉王夫差には越の国から美女が差し出されました。
彼女の名は「西施」。そう、絶世の美女です。


台湾に行くと、檳榔(ビンロウ)の実を元にした噛みタバコのようなものがあります。パラオの人もよくやってますねえ。
街中に通りに向いている側はガラス張りのお店があり、麗しい女性が座っているだけの姿を見かけます。
檳榔の看板や、独特な虹色の扇形ネオンでそのタバコのようなものを売っている店とわかるのですが、売り子はたいがい、この麗しい女性たちなんですね。
この女性のことを、台湾では「檳榔西施」(ビンランスース)と言います。




(2010.12.18 檳榔のお店の看板@台湾  byFinePix F200EXR F9.0  ISO200 1/420)

彼女にメロメロになった呉王は越に対しての警戒を全く無くします。
彼は後顧の憂いがないとして、北の中原への野望を見せます。
この間、越は名臣文種と范レイの活躍もあり、せっせと国力増強に励みます。
また、この頃には孫武は呉軍を離れて隠遁生活を送っており、伍子胥は越に対する警戒を怠らないように呉王に諫言するのですが、これを疎ましく思う呉王夫差との関係がうまくいかず、ついには呉王から自害するように言い渡されます。伍子胥は悲憤のうちに自害して果てました。
これは范レイが差し向けた離間策だったのです。

やがて、機が熟したとみた越軍は呉を攻め、ついに呉の都を占領します。
呉王夫差は伍子胥に合わせる顔がない、といって自害します。これをもって一度は大国楚を滅亡寸前まで追い込んだ呉は滅んでしまうのです。

さて、野望を遂げた越王勾践。
彼の容姿は
「長頸烏喙」
つまり、首が長く、唇が黒い、と表現されています。
この相は、艱難を共にすることは出来ても、安楽は共有できない、と言われているとして、范レイは越の臣を辞しどこかへと去っていきます。
またこの言葉を友人の文種に書き送り、飛鳥尽きて良弓はしまわれ、狡兎死して走狗煮らる、の例えありとして、早く越から逃げるよう進めますが、結局文種は讒言を信じた勾践に死を命じられ自決します。

さて、范レイ。
越を去ったあと海路を経て斉の国にいきます。
斉は太公望呂尚の建てた国で、いまの山東半島が領地になります。
彼はここで名前を変え、師匠の計然の理論を下に貨殖の道(商売)を歩むことを決意します。
短期間のうちにかれは巨万の富を得た、と史書は記しています。

その後、斉の国の宮廷では彼がその昔越の名臣范レイであることに気がつき、宰相として宮廷に招くことにしますが范レイはこの招きを断り、それまでに築いた富を使用人たちにすべて分け与えて斉の国を脱します。
彼が次に移った土地は斉の隣国宋の陶、と言う街でした。
その地で陶朱と名乗り、再び商売を始め瞬く間に巨万の富を築き、街の人々から陶朱公と呼ばれ尊敬を集めたと言います。
陶朱公こと范レイはこの地でなくなったそうです。

ちなみに自分は小学生の頃に海音寺潮五郎の「孫子」を読んだ時に、范レイに出会いました。正直出来すぎ君のような范レイには好感が持てず、孫武・孫子に強く惹かれる一方で、一途で有能で恨み一辺倒ではなく政治的バランスが取れているものの、屍に鞭打つといった心に「狂」を持った伍子胥にもひどく共感した覚えがあります。

それは今でも同じかな。

子供の頃の印象ってのは怖いなー。


2013年8月11日日曜日

キーワードは「三星堆」

九州国立博物館の「ぶろぐるぽ」にエントリーのため、再編集しました。(2013.8.28)



(2013.7.13 九州国立博物館 byNEX5N SIGMA 30mm F2.8 EX DN F2.8 ISO100 1/800)


7月某日、毎度のことながら大宰府に行ってきました。
会社の人から、国立博物館で中国の歴史ものを展示しているらしい、と言う情報を入手。
調べてみると、古代(夏の時代)から中世(宋の時代)に至る、世界的にも最上級の遺物を展示するイベントが行われていました。
・・・しばらくパソコンが無かったので、チェックしてませんでした・・・orz


さて、行って見てきました。
一言で言えば、
「すごい」
です。
どれもこれもすごいんですが、なかでも自分にとってインパクトがあったのは古代の遺物でした。






中国の歴史のスタートは、「殷」王朝(正確には「商」王朝)から始まり、その後「周」、春秋戦国を経て、「秦」、「漢」と続きます。
殷(商)王朝が実在したことは、殷墟(殷(商)王朝の都とされる)から発掘された遺物から、ほぼ確定しています。
このため、中国最古の王朝は「殷(商)」と考えられていました。
それ以前の王朝については、歴史書に載っているだけで空想伝説の物ではないか、と言われてきました。


史書でしか登場しない、(殷(商)王朝以前の)「夏」(日本語では「か」。中国語では「シャァ↓」)王朝があったのかどうか。
ただの伝説ではないか。
まぁ、ギリシャ神話におけるトロイアはあくまでお話の上での都市で実在はしない、と思われていたのと似ています。


その伝説がトロイア同様に現実味を帯び始めたのは、実はごく最近の事です。
中国での「二里頭遺跡」の発掘は世界に衝撃を与えたと言ってもいいでしょう。
現在、「二里頭遺跡」はこの「夏」王朝の都だったのではないかという説が大きな勢力を持っています。
ちなみに、「二里頭遺跡」で発掘された貴重な遺物の多くも、大宰府国博で展示されています。
必見ナリヨ。


さて、ここまでは自分も知っていました。
今回の展示で自分にとって強烈なインパクトだったのは「三星堆遺跡」の遺物の数々でした。


(一級文物 「突目仮面」 青銅 前13-前11世紀 1986年三星堆遺跡出土) 

世界では古代4大文明と呼び、中国黄河流域の黄河文明、インド・インダス川沿いのインダス文明、イラク・チグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミア文明、エジプト・ナイル川沿いのエジプト文明の四つが最古の文明と信じられていました。
これに加えていいかどうかわかりませんが、中国・長江文明が今の四川省あたりにあったようなのです。
長江文明は黄河文明と明確に異なった出自の異なる文明であったことが、展示の遺物でわかります。
もちろん、その後の歴史の中で二つの文明が出会い互いに影響しながら融合していくさまは、中東のチグリス・ユーフラテス文明とエジプト文明の影響を知っていれば理解できる範囲の出来事です。


長江文明の遺物は非常にシュールでかっこいいです。巨大な突目仮面は、その後中原には伝わらなかったんでしょうか。
中原に伝われば、いずれは日本にも伝わったかもしれないのに。残念。
黄河文明にはなかった多量の金装飾製品もあり、非常に興味深いです。


(一級文物 「金製仮面」 金 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)




(一級文物 「人形器」 青銅 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)




展示の副題には「3000年の美の興亡」とありますが、夏や古蜀の時代が4000年前ともいわれているので「4000年の美の興亡」の間違いです。
中国4千年の歴史を侮ってもらっちゃあ困る。

第二章は春秋戦国時代。

楚と斉、魯、にフィーチャーしています。

楚に関しては、以前ここでも伍子胥のことを書いています。

楚や楚の南の呉や越は中原(黄河付近)と違う文明からの出自があったと思われます。
この長江以南の国々の君主が春秋の頃から「王」を名乗っていたことは、その証拠と言えましょう。中原の国々は「周」から封じられた地方領主なので、~候とか、~公という呼び方をします。(晋の文公など)
これは上に書いた、黄河文明とは独立した長江文明のアイデンティティの強さを物語るものといえます。

今回の展示物にある、「羽人」(ウジン、ユーレン)といった独特な観念から生まれたと思われる造形の遺物を見ても、そのことを強く感じさせます。


(一級文物 「羽人」 木・漆 前4世紀 2000年荊州市天星観出土)

斉は太公望呂尚の開いた国。彼自身が羌族出身だったからかどうなのか、斉は出自(出身民族)を問わずに実力主義的な多民族国家だった、というのが私のイメージ。
山東半島の付近の土地はそれほど肥沃でなく生産性も低かったけど、塩と鉄が取れた。
工業系と商業系の発展が斉をその後の強国に育てたといっていいでしょう。
そんな国の芸術は事実をありのままに見て表現する、というのが流儀になったのかどうか。
下の犠尊(青銅の容器。中にお酒などを入れて神に供える)の肉感にはそんな風な印象がありました。


(一級文物 「犠尊」 青銅、金銀緑松石等象嵌 前4-前3世紀 1982年山東省臨淄区商王村出土)



(一級文物 「猿形帯鉤」 銀、鍍金、貼金、ガラス象嵌 前3世紀 1978年山東省曲阜市魯国故城遺跡出土)

博物館には、この帯鉤(タイコウ、帯止め。今のバックルのようなもの)の模型がおいてあり、春秋戦国時代の人のベルトを締める感じを体感できます。


このほか、











というような章立てで展示されています。

写真は

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

九州国立博物館で2013年9月16日までやっています。
ぜひ、お見逃しなく。


(2013.8.28 追記・再編集)




2013年5月30日木曜日

急転直下

急なことですが、今日から代休を頂いています。
いろいろ事情がありまして、会社から「代休取りやがれ」という、ありがたくも迷惑なお達しを頂きました。
ひと仕事終えて、すぐ休め、と言われましても正直全くありがたくないんですが、光の速さよりも早く計画立案・迅速行動・虚心坦懐・有言実行・光陰如矢・風林火山等々により、これより数時間後には福岡発の飛行機に乗ってフィリピン・セブ島でのダイビング旅行の途についているはずです。
ちなみにフィリピンは初めてです。
母方の祖父の戸籍にフィリピン・マニラの地名がありました。(祖父の本籍地は山口県阿東郡(現在は消滅)で日本人ですが)まぁ、全く縁が無いわけでもなさげです。



■フィリピンの国旗:

 Flag_of_the_philippinesr_2



■フィリピンと日本の時差:-1時間。日本が10時の時、フィリピンは9時。
■フィリピンの通貨単位:ペソ。直近(2013年5月)日本円1万円は4100ペソ。
数ヶ月前は5000ペソ、1年前は5500ペソ位だったらしい。日本で両替するより、現地空港、街中の両替屋での両替が有利。
ペソ、といえばメキシコのヌエボ・ペソ以来だな。
■ビザ:フィリピン渡航時、観光目的ならばビザ不要
■水:ミネラルウォーターにするのが無難。
■フィリピンの国番号:63
■治安:2013年04月11日現在、外務省から以下の渡航情報(危険情報)が発出されている。
『十分注意してください。』
上記地域以外のマニラ首都圏を含む全地域。(今回渡航先のセブ・マクタン島付近はこの範囲)



■セブ島はビサヤ族圏。ビサヤ語系のセブアノ語で
「こんにちは」は「マーヨン ハポン」
「ありがとう」は「サラマット」
「すいません」は「パサイロア コ」(英語も一般的らしい)
「これはなんですか?」は「ウンサ キニ」



 



現地の天気予報(5/30現在) 





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2013年5月25日土曜日

ある異国の週末の空

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(2013.5.10 ホテル前の公園 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 22 ISO400 1/60 )



ホテルのすぐ目の前に丘のような小山がありました
高さは200~300mくらいじゃないだろうか。
他にやることもないしお金もないので、散歩がてらこの小山を登ってみることにしました。
ホテルのある街は現代的計画的に作られたニュータウン(学園都市のような)で、小山も公園としてびっくりするほどきれいに整備されています。



小山の中は日本と変わらない風景です。しいて言うなら松が多いです。
この場所は緯度が高く亜寒帯です。熊本とは植生の違いがあるのでしょう。
高さがないのでずっと登り道ではなく、10分ほど登るとあとは緩やかな上り下りのある道にかわり、さらに10分ほど行くと、もう頂上です。
頂上には韓国風建築の屋根のある休憩所兼見晴し台があります。
来る道すがらにすれ違う人(もしくは家族連れ)が幾人かいました。休憩所にも15人くらい居て、すわるところが全部埋まってました。
周りの木が高くて見晴しは良くありませんが、良い感じの風が吹いていて気持ちのいい場所です。
みんな何か会話しています。子供たちも多くてワイワイやっています。
会話の中身はまったくわかりませんが、風景は日本でもよく見かけるものです。
なんかとても、のんびりした気分になりました。



上を見上げると、春特有のややうすく雲のかかった青空が広がっているのでした。



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(2013.5.10 小山の道 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 11 ISO200 1/60 )
気温は23~4℃くらい。乾燥していて風が吹くと気持ちいい。



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(2013.5.10 韓国古風建築休憩所 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 10 ISO100 1/60 )
木々の合間から極彩色の韓国の歴史建築を模した休憩所が急に現れる。



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(2013.5.10 ツツジ? byNEX5N Tamron 18-200 III 60mm F 10 ISO100 1/160 )
日本の公園でも良く見かける風景。



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(2013.5.10 休憩所 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 9.0 ISO100 1/100 )
休憩所の中は満席。外では子供たちが走り回っていた。



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(2013.5.10 樹空 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 3.5 ISO100 1/400 )
タムロンズームの性格を見ようと思って撮った写真。いいんでないの。
写真的にはも少しアンダーに撮ればよかったかな。



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(2013.5.10 公園の外はニュータウン byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 3.5 ISO100 1/1250 )
公園の周りはニュータウン。見えているのは高層マンション群。
今回自分が滞在した場所がソウル近郊ということもあるのだろうが、この手の高層マンション、高層アパートの数がハンパない。



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(2013.5.10 異国の空 byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 10 ISO100 1/320 )
韓国は松林が多いです。
日本でも、海岸に行けばこんな感じの写真をいっぱい撮れますね。



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(2013.5.10 滞在したホテル byNEX5N Tamron 18-200 III 18mm F 22 ISO640 1/60 )



ドンタンは「東灘」と漢字では書くらしいが、韓国で漢字を書いても、♪わかるかな~、わっからなねーだろうな~
少なくとも、自分は現地で「東灘」の漢字を一切見かけませんでした。