味生池(あじうのいけ)はその後、加藤清正によって埋め立てられ新田になったらしいのですが、埋め立てられる前にはかなり小さくなっていたのではないか、と思われます。
それはさておき、その味生池のあった池上の話。
清正が入国する前の肥後は豊後の大友氏や肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏が争い、その勢力下に収めていましたが、さらにそれ以前となると肥後守護の菊池氏、阿蘇神社大宮司の阿蘇氏、人吉の相良氏のそれぞれが肥後国内で勢力拡大を狙っていました。
もっと言うと、彼らの家臣クラスの国人衆もそれなりに力を持って威張っていた時代がありました。
阿蘇氏18代目の当主は阿蘇惟豊で、前半生は欲深でやんちゃな兄に翻弄され散々苦労します。
彼が兄に追われて山向こうの日向国に落ち延びているとき、救ってくれたのが日向の国人甲斐氏でした。
惟豊は甲斐親宣の補佐を受け永正14年(1517年)阿蘇氏当主に返り咲くのですが、この甲斐氏で有名な武将が親宣の息子、甲斐親直です。(ちなみに永正14年は、織田信長の父親信秀が8歳、北条氏康は3歳、今川義元が生まれるのはこの2年後、武田信玄は4年後に生まれます。そんな時代の話。)
この甲斐親直の歴史に池上の地名が現れます。
時代は下って天正年間。肥後は近隣有力大名(大友氏、竜造寺氏、島津氏)の代理戦争の真っ只中にありました。
一時は大友氏の影響が強かったのですが、天正6年(1578年)に日向耳川で大友氏と島津氏の戦いがあり、大友氏が大敗をしたため、逆に勢いを増す龍造寺氏や島津氏の勢力に鞍替えし、大友氏から離れていく肥後国人衆が少なくなかったのです。
阿蘇氏は領地が地理的に豊後に近いからか、斜陽色濃いとはいえ豊後の名門は一戦の敗北では倒れがたしと見たか、理由は定かではありませんが、大友氏の元に留まることを選択します。
この判断に大きく影響したのは阿蘇家の筆頭家老甲斐親直の意見でした。
天正8年3月から4月にかけて、阿蘇氏領を狙って肥後国人衆大友離脱組の攻撃が始まります。
離脱組としては、阿蘇氏を攻撃してもそのバックにいる大友氏の支援はない、つまり阿蘇の領地は切り取り次第、という計算が働いたに違いありません。まさに戦国。まさに弱肉強食。
甲斐親直は、当時は出家して「宗運」と名乗っていますが、この離脱組の軍勢と白川且過瀬(現在の世安橋付近)で戦い、これを見事に破って敗走させています。
この軍功に対して、時の大友家当主義統(バカ息子)は飽田郡池上村を宗運に与えた、と伝えられています。
池上と甲斐親直が結びつくなんて、びっくりです。
ちなみに甲斐親直の居城は、上益城郡御船の御船城です。池上からはずいぶん遠い、、、
この戦いはデキレースのような色合いを感じます。
甲斐親直は歴戦のツワモノで、戦いの数は数多くありますが、ほぼ負け知らず。
ここぞと言う戦いでは、追い散らすだけではなく敵の首を数多く取って勝利したことが記録に残っています。
白川且過瀬は敵の武将の一人、城親賢の居城である隈本城(熊本古城)に近く、混乱の中で追い詰めれば隈本城も奪えたのではないかと思うのですが、この戦いで主だった敵側武将は一人も戦死していないようです。
このあたりが、代理戦争と割り切って出来レースを演じたのではないか、と思わせるわけです。
しかし、戦いとは勝ちすぎても益が無いと言いますから(孫子)、真実は阿蘇の威を見せるだけで十分とした宗運の引き際の良さなんでしょうけどね。
合戦地の白川且過瀬があったとされる世安橋から、城親賢の居城、隈本城があった古城町の第一高校までは、現代の道で徒歩30分。
上の地図では左側に甲斐宗運が与えられた池上付近があり、花岡山を挟んで右に且過瀬があります。
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