2018年5月2日水曜日

GWにしてたこと

GWの谷間ですが、熊本は午後から雨でした。

GW前半に私は菊池市の(ここのブログではTOP画像に何度か登場していますが)麴智城公園に行き散歩しましたが、まったくのが~らがら。この公園が大勢の人出になっているところを見たことがありません。
自分にとっては、歴史を感じつつのんびりできていいのですが。いきつけの散策場所になっています。

麴智城公園は、西暦600年代7世紀半ば、朝鮮半島で行われた、当時中国を支配していた唐と朝鮮半島の国のひとつ新羅(しらぎ)の連合軍と日本と朝鮮半島の国の一つ百済(くだら)の連合軍の戦いが、関わっています。
この戦いは行われた場所から「白村江の戦いと呼ばれていますが日本は、大変下手糞な、素人同様の戦いをして、大敗をしました。」
この時の日本の支配者(=なったばかり天ちゃん、天智(中大兄皇子)がこの敗戦に激しく動揺して、唐が日本に攻めてくるかもしれん、と唐の侵略(唐にその気は一切なかった)に備えて、西日本の各地に迎い討つための城など防御設備を作った跡
を公園にしたものです。麴智「城」とはいいますが、後世の城郭とは意味合いが異なります。激しく動揺したというのは、この時の都は海沿い大阪城(当時はもちろんありませんが)の隣の難波京にあり、ここから内陸の琵琶湖の近くの近江京へ遷都したことで知れます。
さて、
21世紀の現在でも、熊本県菊池と言えば、農業生産活動が活発ですが。恐らく1400年前の西暦600年頃も、現在と同じく、農業生産が高い地域だったと思われます。
その地域特性を生かして、唐が攻めてきた場合、筑紫現在の福岡を想定戦場とした場合の、兵站(兵員や兵糧などの補充目的)基地として、後方の肥後国の麴智(後世の菊池地方)が選ばれます。
その兵站基地に兵舎や、食糧倉庫が作られ麴智城としました。その遺構が発掘されています。
現在の麴智城公園は当時をしのぶ、兵舎や倉庫などの建物が復元されています。
公園のシンボルは周辺に時を知らせるための塔(鼓塔)です。(これも、今から1400年前当時のものはさすがに残っていないため、かなり想像が入った復元がされています。


663年の白村江の戦いのあとしばらくして高句麗に逃げた王族が、唐に攻められた高句麗の滅亡と共に亡くなり、百済は滅びます。

白村江の戦いは、新羅や大陸の唐から攻めらられ、滅びようとする百済が一旦国自体は亡びた(660年)後、復興を目指す百済の求めに日本が侠気を示した戦いでもありました。(半島の権益を守る意味合いもあったかもしれません。御天ちゃんになりたての天智が
何かしたかっただけかも。このときの半島への関わり方が内容がずさんで、あまりに稚拙なので。深く戦略や政略を検討した上での出兵だったとは思えない。)
白村江戦役後事実上、百済が滅びたあと、さらに高句麗も唐によって攻め滅ぼされ、両国の故地は唐の領土(安東都護府をおく)になります。(もともと、今の慶州あたりを本拠にする新羅が百済の領土を狙っていたのですが、唐と高句麗の戦いもあり、その後は押し切られてしまったようです。)



この戦い以前、西暦400年くらいからこの7世紀後半まで、朝鮮半島は三国時代と言われる3国鼎立の時代。一つは百済(今のソウルの南がわ)もう一つが新羅。残るは、今の北朝鮮と中国の領域含む地域に、高句麗という国があり。
この3国で朝鮮半島を巡って300年以上争いが続きます。百済は日本との友好を背景に一時、半島の大部分を占める位置を得ます。しかし、長く続きません。
唐が百済と高句麗を滅ぼし半島の一角を占めるようになっても、新羅は野望を絶やすことなく、その後の唐の衰退に乗じ、最後には新羅が半島を統一します。





さて、公園での散歩しながら4か月ぶりに熊本市大江にある、市立図書館に行きました。
GWはのんびり読書しようという腹積もりです。今回は特に目当ての本があったわけではありませんが、結局借りたのは池波正太郎の剣客商売1~4全集とあって(1と2が一冊、3,4が一冊にまとまっていました。)
 感想はいずれ載せます。


0 件のコメント :

コメントを投稿