2018年8月19日日曜日

個人向け国債購入

今朝も涼しい朝でした。
、6時起き朝食して7時から自宅付近を散歩して、ノルマの6000歩の散歩を済ませました。
8時を超えてくると日差しは強いですが、風は涼しいです。
コンビニまで、家から一番近いコンビニまで2kあります。
往復すると50分ほどでちょうど6000歩。軽く汗ばみますが、扇風機にあたりながらブログを書いているうちに汗は引きました。


個人向け国債購入を検討していましたが、予定通り購入しました。
3年固定金利。変動金利は10年しかないのですが、いくら途中換金は1年後以降可能とはいえ、自分の寿命が残り10年もないのに、10年の国債購入はおかしいだろうと思って10年変動金利は断念しています。
肥後銀行に国債購入の話を持ち掛けた際に勧められたのは外貨建ての個人年金(第一生命系列)ですが、さすがにここ半年のアメリカ政権の不透明さを考えると、外貨建てはいくら米ドル債券運用とはいっても、見通せないだろうと思いました。
肥後銀行で勧められたのは↓これ
http://www.d-frontier-life.co.jp/products/product.html?product=137&agency=45


あと10年若ければ、月々低額で積み立てていくには、良いと思いますけどね。

この結果、
資産のうち、債券の占める割合は26%。投信は外債が半分、株式投信半分なので、純粋に債権の占める割合は30%くらいになるでしょう。
株式が50%あるのは持ち株で自分の勤めている会社の株がここ数年値上がりしていることが大きいです。積み立て分の3倍くらいになっています。
国債購入前の貯金比率が40%あったのでこれが15%に低下した分が国債投資に移りました。



菊池渓谷に行ってみようかなーと昨日あたりから考えているのですが、踏ん切りがつかず、きょうも、今日も自宅でうだうだ読書して、昼に図書館行くついでにタイ料理食べに行くかも。



2018年8月18日土曜日

高校野球をわき目に読書してました。

熊本は、昨日に引き続き、からっとした空気で晴れていました。夜に引き続き、日中の部屋の中も窓を開けておけば、扇風機で十分涼しい。朝方、恒例の散歩に行き、1時間で4kmほど。6000歩、歩きました。まとわりつく虫も少なくなったような。そのあとは家の中で高校野球をわき目で見ながら読書。だらだらうだうだしていました。高校野球は今日でベスト4が決まりました。
いい試合が続きましたねえ。済美は優勝してほしいなあ。なかなかいい試合でした。済美ー報徳。
山口君、良い投手ですが、先発の池内君もいい投球内容でしたねえ。今日は3試合が1点差の接戦で、逆転で試合が決まる、下関国際も、終盤まで日大三をほぼ零封でしたからねえ。
手に汗握る、いい試合でした。
さて、一日置いて明後日、準決勝。
 
 
一方、颱風ソーリックが来週あたり九州上陸かな。と昨日書きましたが、
予想進路がやや西よりになりました。九州側からすると、あまり良くない進路。一般、颱風は進路に対して右側の風や雨が強いので、この予想進路では、風雨の強い領域が九州にあたるようになります。
颱風の勢力も刻一刻、大きくなっていて、下の気象衛星の18日15時の時点では965hPaです。
颱風の目がしっかりしてきましたな。九州に近づくころ来週の月曜には950hPaくらいまで成長する予想になっています。
 
 

2018年8月17日金曜日

颱風ソーリックが来週あたり九州上陸かな。

数日前、まさかの熊本上空を通過していった、颱風リーピLeepi 漢語表記:麗琵のおかげでちょくぜんまでの、焼けるような熱さはどこかに行って、昨晩はエアコン要らずでした。
日中は30度前半。35度を超えることはなかったんじゃないでしょうか。風も乾いていて、日陰は涼しい感じでした。夏の後ろ姿を見るような雰囲気でしたね。
さて、とはいっても来週また別の颱風が熊本に近づきそうです。まだ、南海沖合で、予想進路も定め難いですが。

颱風の名前はソーリックSoulik 漢語表記:蘇力 
ソーリックはミクロネシア提案のアジア名。
ポンペイ島の伝統の酋長称号だそうです。
 (2018年8月17日17時10分の衛星画像。)

(2018年8月17日15時颱風ソーリック予想進路)

日本上空に大陸の高気圧が広がっているので、その縁にそって進行するような予想進路。

2018年8月16日木曜日

池宮彰一郎平家(中)の感想とか

昨日は終戦記念日でした。

日本で亡くなった方も大勢いますが、それ以上に、戦争なので、特に日本は、アジアの各地に侵略を行いました。その各地で日本の侵略の被害に会われて、無くさなくてもいい命を失った人が大勢います。日本人はこのことは忘れないほうがいいでしょう。多くのアメリカ人を殺していますが、それは戦争なので致し方ない部分があるでしょう。
ただ、アジアの各地に関しては、その殺し合いは、日本側から一方的に押し付けた形の殺戮と破壊です。
これらの被害者の冥福も、日本人同様に、日本人が祈り反省をするべきことです。
しかも、日本は他人の庭を荒らし回ったくせに、戦争に負けた敗戦国。
敗戦国のくせに、負けた国の態度を忘れたとき、報いがあります。
お天ちゃんも反省という言葉を述べてましたが。敗戦国の戦争指導者の末裔としての自覚を忘れずに、謙虚に平和を希求する姿勢は同じ場所にいた政治家もみならすべきでしょう。
ただでさえ、日本は、お手本にする大人が少なくなっています。
せめて国の現役指導者は、悪い手本ばかり見せず、良いお手本になるべきと思いますが。







池宮彰一郎平家(中)
池宮彰一郎さんの「平家」を読んでいます。
この中にこのような記述があります。
「国家と民衆の貧困・衰退を救わなければ明日の希望はない彼はその進路を海外に見た。貿易立国である。
彼がそう志すに至ったのは、父忠盛の実績によるものだった。忠盛は所領として得た神埼荘を拠点に私貿易を行い 時に太宰府の官人と揉め事を起こしたりして巨万の富を蓄え 清盛に遺した。
それが清盛飛躍の基になった。」
この部分を取り上げたのは、後述しますが、清盛の生きざまを知るうえで、彼の志をどう描くか、が非常に重要だと思うゆえです。

平治の乱後後白河と清盛の間には時に緊張が走ることもあったが、大枠平穏のまま藤原官僚群の無力化を目指す国政改革もあまり進まず。そんな中後白河は清盛の娘徳子を高倉帝の中宮にするようにはからいます。
清盛は後白河の意図を察して警戒し、ためらいつつ、これを受ける。後白河院の厳島御幸もあり、「平家の天下」を世間が認め始めていました。

一方、その陰で、反発もあり。満つれば掻くる。 退潮の兆しの一歩は後白河の寵愛を受けていた後白河の妻、平家の女、建春門院 滋子の死、でした。

池宮氏は清盛の国政改革、旧体制=藤原官僚制度の制御。が達成できなかった理由の一つに挙げているのは、協力者のなさ、です。
平家は一時朝廷の大部分を平家一門で固めたが、清盛の意思を理解して、これに協力する一門が一人としていませんでした。
嫡男の重盛はむしろ、旧体制に取り込まれており。穏健な態度は旧体制からは、御しやすいとなめられてもいた。
重盛と清盛の間に意思の疎通がほとんど感じられない。目的の共有がされていませんでした。
清盛にとって平家(一族)大事という思いは、晩年はほとんど見られなかったと感じられます。
清盛の弟、もしくは彼らの息子たちは、旧体制に取り込まれ保守的になりすぎた。保守は即、退嬰を意味します。。
まして、平氏にあらずんば人ではない。という、平氏一門にとって栄華を極めた時期でもありました。
このため建春門院滋子の死は突然ですが、平家の衰退のきっかけとしては大きな影響があるできごとでしたし、終わりの始まりの引き金として十分な出来事。
滋子は後白河と清盛の間に起こった揉め事では、必ずそのヒビや溝を大きくしない、長引かせない、ようにさする大きな役割をもった女性でした。
この直後、平家の専横に不満を持つ公家、皇族を集めた平家打倒の密議。鹿ケ谷事件が発生します。
そもそも、専横、と言って、平氏の人々による、あからさまな大きな専横の事件があったわけではありません。
むしろ清盛の志のため、既得権を奪われた、守旧的な藤原官僚群による反撃がじわじわ進んで、これが高じて、不満の高まりになったのでしょう。清盛の義理の弟、平時忠による、子供に京都市中を見張らせ、平家をそしるものがいると密告と直接子供たちに好き放題、暴行させた「六波羅の禿」という出来事はありました。いわゆる市民への言論圧力です。
これによって、市中の平家への評判はがた落ちします。
これは清盛の志とおよそかけ離れたことです。時忠の家の家風は乱れている、これは、清盛の妻、時子とその時子の産んだ子供たちににも受け継がれています。
恐らく、清盛がこれを看破せず、家のことを時子に任せっぱなしにしたことも平家没落の因だったのではないかと思います。そう思わせる事件がありました。清盛の次男、宗盛が、治承3年の馬揃えで見た、源頼政の子仲綱の馬を欲しがり、体裁として借り受けて、そのまま横領してしまった事件があります。
池宮平家では、この馬は坂東武者の和義盛の贈った馬、ということになっています。
木の下(このした)
宗盛は馬は素晴らしいが飼い主が気に入らないと行って、木の下に『仲綱』と焼印をおさせ、
客人が来ると「その仲綱めに鞍おいてひきだせ、仲綱め乗れ、仲綱めうて、はれ」と
もちろん、仲綱はこの話を聞いて、平家の恨みを深めます。
この話を聞いた仲綱の父、源三位入道頼政(よりまさ)も、平家を滅ぼしたいという思いに駆られます。
頼政に相談された、安徳帝の成立に憤慨した後白河の息子以仁王
による平家追悼の令旨につながります。
鹿ケ谷の事件の黒幕は後白河院でしたが、清盛は直接、後白河に手を下さず、院近臣の遠島、西光や藤原成親の遠島、処分にとどめます。
成親の妹を妻にしていた、重盛は成親の赦免を清盛に訴えますが、聞き入れられず。
そのすぐあと、重盛は死去します。さらに院近臣の藤原季能が越前守となり、重盛の知行国が没収されてしまいます。
その直後、清盛は軍事クーデーター(治承3年の政変)を起こし、白河院を鳥羽院から福原へ幽閉、院政停止にし、関白藤原基房の解官、太政大臣・藤原師長の解官。
基通が関白・内大臣・氏長者に任命されます。この事件に並行して、これまでどこに行ってたか、十郎行家が現れ、蠢動を始めます。
クーデターの跡、清盛は高倉帝を譲位させ、清盛の娘徳子と高倉帝の間に生まれた子を帝位につけ安徳帝を成立させます。
頼政に相談された、安徳帝の成立に憤慨した後白河の息子以仁王
による平家追悼の令旨発行。
行家にたきつけられた源三位入道頼政が以仁王の令旨のもとに反乱を起こし
最期は宇治平等院で立てこもり、自刃します。
行家によって、広められた以仁王の令旨によって坂東に潜んでいた頼朝が挙兵。
石橋山の戦いにつながっていきます。
中巻では、
石橋山の敗戦から頼朝の安房への逃避、三浦義澄のたった一人の籠城のうえでの討ち死に、頼朝のもとに駆け付ける坂東武者。
そして、富士川の戦いと、頼朝と義経の邂逅までがえがかれています。
さて、結局、清盛が藤原官僚群による、旧体制を変えようとして、どういう国の姿を目指していたのか、と言う部分はこの冒頭に書いたような、父忠盛が示して見せた、貿易や交易による立国であったと書いてあります。
父の跡を追ったもの、ということがおおきな動機になったとしているのですが、私自身のイメージとはややかけ離れていました。
清盛は、つまるところ、海が好きだった人ではないか、と私自身は他の平家物語を読んだ上で、感じています。
交易によって広がる見聞、世界の広がりに心が躍ったのではないかと思っています。
そして、たしかに、その交易によって得られる富によって、国を変える日本を富める国にする、目指すべき姿にしたのではないかと思うんですよね。
なので、池宮平家では神埼庄の清盛の若い時の感性を描いてほしい気がしました。恐らくそこに、彼が、わざわざ今日の都を捨て、海に近い福原に都を作る大きな動機になった何かがあると思うのですね。
残念ながら、平治の乱から始まるこの池宮平家では既に、上巻の時点で、清盛の頭にあるのは藤原官僚群を勢力とする旧体制の打破しかなく。
動機がこれだけでは、心躍るものではありません。たんなる、反体制家の姿しか見えません。これだけでは、革命家清盛が、やや小さく見えてしまいます。
さて、最終盤、いよいよ頼朝が挙兵しますが、私自身は頼朝という男は日本史上、最も非常に血の冷えた支配者だったと思っています。
しかも、恐ろしく小心もの。その後、武家政権が続き、勝者の側から歴史が描かれていったため、頼朝は恐ろしく美化されすぎています。
さらに、源氏の血筋でないと政権を担当できない(征夷大将軍位になれず、幕府を開けない)、ということになったため、
後世の政権担当者にとって、最も尊崇しなければならない、血統上でも尊祖とされてしまったのです。なんて非合理な。
実際の頼朝像ですが、いくら後世の人が美化しようとしても、それでも、血が冷えた部分は隠せるものではありません、加えて、
その後の彼の一族や子孫の哀れな末路を見れば、その原因が、頼朝の猜疑心強く、冷えた血のせいで、徳のなさを示すもので、その結果として源氏一族の哀れな末路を示すものでありましょう。
彼は平治の乱後、伊豆蛭が小島に遠島になり幽閉されているとき、自身の境遇をわきまえず、監視訳であった、伊豆の伊東家の女(八重姫)との間に子をなし、その子千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨てられるはめになります。
捨てることを命じた実の祖父伊東祐親の憤りのほうが、切ない。この場合、男のほうに多くの罪と責任があるはずです。
このころの頼朝、20代前半ですが、この一事を見ても、非常に無責任極まりない男であったようです。
その後北条家の娘政子との間にも娘大姫を設けますが、この大姫も悲劇的な最期を迎えることになったのも、父親、頼朝の冷血のなせる業といえるものでしょう。
挙兵初期、彼が美化される最初の場面は、石橋山の敗戦後、渡海し安房に逼塞しているなかで反平家の勢力を糾合する中で、上総国府での、上総広常との会見で、毅然として、広常の遅参を責めたというところでしょう。
これは本当のことなのか、最初、吉川英治の平家物語で読んだ際に、後世の創作ではないかと思いました。余りにに出来すぎていると思えたのです。
確かに、呼びかけへの最初の反応は弱かったもの、尋常ではない大勢力を率いて頼朝のもとにきて、しかも、当時、上総広常は、頼朝の出方次第では率いてきた大兵力(2万騎10万人と言われる)でもって、頼朝を捕らえ平家に突き出す、二通りを考えていたとされています。
そんな、怪しい心を秘めた広常に遅参を責める、と言う水際立った駆け引きが、この小心者にできただろうか。
いくら、後世の創作にしても、つじつまが合わなさすぎる。
彼に本当に、すこしでも山っ気や豪胆な面が、伊豆潜伏時代にあれば、叔父の行家が訪問するまで伊豆に留まっていたでしょうか。
少なくとも、伊豆潜伏時代の頼朝は、引きこもりで、監視の目を異常に恐れ、武芸をたしなむことなく、読経、写経に明け暮れる20年余を過ごしており、長い流人生活によって体に染みついたのでしょうが、平家に追われ汲々とする小心者で、決断力に欠け、猜疑心多く。どう贔屓目に見ても凡人以下の姿しか見えません。
なぜ、そんなかれが平家を滅ぼすに至ったのか。小心であったことや、猜疑心の強さも、その理由であろうと思います。
ただし、その結果、彼が失くしてしまったものが大変大きなものではありました。
平家物語でも、池宮平家でも、頼朝自身に、清盛のような「志」というものを描かれることはありません。
そもそも、小心者で猜疑心が強い人には志はありようがない。
いくら美化しても、頼朝には、そういった類の伝説すら存在していません。


さて、お次は下巻。清盛も挫折し、平家は滅びの道をどのようにすすむのでしょうか。


2018年8月14日火曜日

うなだれるひまわり

颱風リーピが予想外に北よりにコースを変えて、明日未明九州上陸し九州、熊本を横断しそうです。
図中の赤線はかつての予想進路。
うちに最も近づくのは明朝。
降水予想で明日朝の6時くらいの予想図を見ました。
明日は雨ですなあ



先日、ニュースで、宇城、豊野のひまわりのニュースを見ました。
見に行ってこよう、と出かけたのが今日。
熊本市北部の自宅から、宇城豊野まで、3号線使って、およそ1時間半。
豊野、糸石にあるらしい、しか分からず、行けば看板とかあるんじゃないか、と、かなり適当に考えて、行ってみたものの。3号線から218号線に乗って、豊野を超えて、美里町まで行っても看板なんてありゃしない。
そこで、糸石にあった、コンビニで店員のお姉さまにきいてみたところ、、軽く笑って新設に絵をかいて教えてくださいました。軽く笑ったのは、あーやっぱり分かんないわよね。の苦笑?だったのでしょうか。
で、いってみたところ、途中で変な看板のせいで、迷子になりかけましたが、コンビニのお姉さまの手書きの地図通りに行って間違いなく到着。

神社が目印ですが、この神社と、その境内にある看板については、予想外の収穫だったので後述。
写真はすべてクリックすると拡大します。


神社の入り口にこのような案内板がありました。

この案内板を、もっと手前においてほしかった、、、
子の案内板の近くに車を置いて、そこから歩いて行ってみると。


現場に到着。なんか怪しげな感じ。予想外に緑が多いぞよ。


kの看板を見ながら少し登ってみると。



来てみると。ガーン。全部のひまわりが暑さでか、うなだれ気味にしおれとる。

ここから下は、うなだれた残念な姿のひまわり映像です。













一同、礼! みたいな。





ショボーン、スンマセーン、みたいな。

ショボーン、スンマセーン、


サーセン的なヒマワリ






みんなでガックシ、的なヒマワリ。


さて、神社の話ですが、名前は相良神社と呼ぶようです。


鳥居をくぐると、やや新しい、小さなお堂があります。





ちいさなお堂は相良堂というようです。再建して新しくなっている風ですが、県史跡とありますねえ。
不思議な。

帰宅後、このブログを書く前に、調べて見ると、、宇城市のサイト
https://www.city.uki.kumamoto.jp/kankou/q/aview/113/93.html

以下のような説明があります。

『享保15年(1730)に、惣庄屋の中山孫左衛門によって建立された響ヶ原の戦い(天正9年(1581))で没した相良義陽とその家臣を祀るための堂。相良義陽の家臣であった犬藤頼安によって没時に供養碑が建立されており、これを保護し供養するために建てられた堂です』


そう、先ほどのひまわり畑の周囲、少し台地状になっています。
まさかこの地が、あの有名な響が原だとは。
響が原とは、かつて戦国時代に、上述のような、響が原の戦いでゆうめいになった場所。
古戦場です。

鎌倉時代以降から、人吉付近を収める領主(地頭)が、名族相良氏。
徳川期も生き延び、人吉藩の大名として幕末まで残ります。鎌倉時代の領主が同じ場所で残るというのは全国でもそう多くありません。九州では薩摩の島津家。人吉の相良家。
相良家もその間、様々な苦難を乗り越えてきましたが、戦国末期の九州。島津家が薩摩大隅を平定し、北上しはじめ。
天正6年1578年。日向伊東氏を攻めたことがきっかけで豊後大友氏が出張って日向の耳川で大きないくさになり、大友家はみじめに大敗し、多くの名だたる武将が戦死。これをきっかけに大友家は衰退を始めます。
その後、島津はすぐに日向を平定し、豊後に攻め入ることはせず、肥後に侵攻します。
肥後は人吉の相良家と、益城や阿蘇の宮司家だった、阿蘇氏が庇護の大きな領域を占めていまいした。それ以外の地域は菊池家がいたのですが、肥前の龍造寺と大友支配で転々としており、ローカルな豪族がそれぞれのパトロンをその場その場で都合よく変えながら割拠している状態。
相良氏は早い時期から島津とよしみを通じていました。

このため、島津家は益城を収める阿蘇氏を取り込むため相良氏を先兵とします。
当時の相良氏の当主、相良義晴は阿蘇氏の名臣御船城主甲斐宗運と厚い盟友関係を結んでいました。
友情を取るか。お家の大事を取るか。
義晴は守りにくい響が原台地上に陣を敷きます。島津の侵攻と相良軍の出兵を聞き、相良軍が響が原に本陣を敷いたと聞いて、宗運は耳を疑います。あんな場所では負ける気か?と。
甲斐宗運は一気に相良義陽の陣を奇襲、相良勢は壊滅します。
相良義陽は退却を勧める家臣の言を無視し、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたといいます。
義晴は、盟友甲斐氏と相互不可侵を誓い合っていましたが、膨張する島津の勢いには抗えず、
意に反して、益城に軍を進めてしまったことを悔やんでいたのでしょうか。
まるでその盟約違反を懺悔するかのように、悲劇的な終わり方をしています。

この相良義晴の首やこの戦で戦死した相良家臣の亡骸を供養するために縦らえたのが相良塚で、その後、その塚にお堂が建てられ、相良堂されたのですな。
相良神社の境内には響が原合戦に関する案内板もあります。夏草に埋まって、目立ちませんが。
夏草や兵どもが夢の跡、を地で行く感じ。









ひまわり目当てに来てみましたが、ヒマワリは残念ながら、響が原合戦で負け、うなだれる相良兵を思わせる残念な姿ではありましたが思わぬ古戦場訪問になりました。













































剣客商売全集(8)前半感想 

時期的にはお盆休みになりますが、先月墓参り済ませました。
会社も8/13~15は休みなのですが、この期間中は食堂は開いており、初日だけ、お昼ご飯を社食で取りました。
前夜ペルセ流星群を眺めている深夜も乾いた風が吹いていたのでひょっとしたらそうなるかもしれないなと感じましたが、13日の熊本県(九州各県も)、フェーン現象で激しく気温があがりました。
日田で39.9度だったらしい。
熊本市で38.1菊池で38.4度。じりじり焼けそう。


剣客商売全集 8巻前半 「二十番斬り」 (おたま、二十番斬り)
剣客商売の作品としてはこの8巻の作品で最後になります。別冊もあるらしいのですが。
図書館では見たことがない。
せっかく面白い作品を見つけたのですが、これでもう読み終わると思うと、寂しいです。
といいつつ、今の時点で読み終えています。小兵衛はまだまだ生き続けるようです。
最終巻の最後の話時点で、余命が30年近くあるのです。
剣客商売は小兵衛とその息子大治郎が主人公ですが、お話的には、
その周りの個性豊かな、江戸の町人kお兵衛の友人たちが大きな存在です。その多くの友人や仲間が小兵衛が亡くなる前に死んでしまう。ことになっています。
恐らく、小兵衛の最後は孫、小太郎が立派な人物になっているでしょう。
ただ、時代の波の大きさが大変なもの。幕末明治維新を迎え、小兵衛の予想通り、侍の世ではなくなります。剣客としては生きていけない世になります。



ほぼあらすじをかいてしまっておりネタバレになります。ご注意ください。

おたま
小兵衛とおはるがおたま、と呼ぶ白猫は小兵衛の隠宅に迷い込んで居ついたのは一昨年前、おはるは嫌がったが小兵衛に懐いて一年前の梅雨に一旦居なくなった。それが一年ぶりに姿を見せ、小兵衛を誘うそぶりを見せる。
おたまは、木立や竹藪に囲まれた一軒家に小兵衛をさそいだす。中に人がいる気配がする。小兵衛は二年前、通りがかりに無頼の浪人に暴行を受ける老人を救ったことがあり、その事件の時、一部始終を見ていたのがおたまだった。そのことを思い出して、意を決して、一軒家の中に踏み込むと、大男の禿げ頭の老人が猿轡をかまされ後ろ手に縛られて、女が三人の男たちに強姦されていた。小兵衛はなんなく三人を追い払った。また老人に見おぼえがあったが、老人のほうは覚えていないようだ。四十年ぶりの再会。老人の名前は夏目八十郎という。
この事件には裏があって、女の動きからそれを察した小兵衛はこれを見抜く。女は老人のお金を目当てにしているが、老人との関係も清算したいと思っており、自らを餌にして、三人に襲わせた。三人の無頼たちと女は一味だった。
夏目八十郎はかつて小兵衛の師匠、辻道場に入って八年目に、ほうぼうの道場を渡り歩く、夏目に辻道場であった。しかし、当時、夏目は強く、小兵衛がけいこで一度として勝てず悔しい思いをしていたのだった。
弥七によると、夏目は大変な猫好きらしい。四十年もたつと、ひとはすっかりかわるものらしい。・

小兵衛が猫と関わる話はまえにもありました。
おたまでは、前に小兵衛が買っていた黒い猫のくろ、という猫も登場します。
小兵衛によると、猫は人間以上に周りに気を遣う生き物で、あるらしい。

二十番斬り。
やや長編です。
前にも書きましたが、ざっくり書くと、
小兵衛の若いころに師匠から剣だけなく人生の支えとしても面倒を見てほしいと頼まれた門人仲間がいました。
その門人仲間の息子に関わる事件に小兵衛が関わる「二十番切り」。
十番斬り同様、二十人をばったばったと倒していきます。、傘徳さんの表現を借りるとゆらりふらりとした動きで倒していきます。最後の一人は番傘で倒すという離れ業をみせます。
門人仲間の隠された秘密、師匠辻平右衛門との秘密の関係が明かされますが、この息子は最後まで真実を小兵衛に直接語らないままでした。

2018年8月13日月曜日

2018ペルセウス流星群(2)

2018年のペルセウス座流星群を見てきました。
13日0:30に自宅出て、鞠智城跡に13日1:00頃着。準備して。
最初に撮ったのがこれ。

(2018.08.13 ペルセ01 by α6000 SEL24F18Z  F 3.2 ISO1250 319s 5min19sec 固定)

ペルセの特色ですが、明るい流星も多かったですね。ただ、今回、流星痕が残るほどの流星は見えませんでした。3:30に撤収するまでの2時間で、恐らく、10分で5~6個は見えたので1時間当たり30~40個以上は出ていたように思いました。
雲も少なくて。条件は良かったです。



(2018.8.13 ペルセ02 by α6000 SEL24F18Z  F 3.2 ISO3200 20sec 固定)
鞠智城の鼓楼を入れて固定で20秒。



(2018.8.13 ペルセ03 by α6000 SEL24F18Z  F 2.2 ISO400 36sec 固定)
鞠智城の鼓楼を入れて固定で20秒。ISOを下げて、空の白かぶりを抑えてみました。


(2018.8.13 ペルセ04 by α6000 SEL24F18Z  F 2.0 ISO800 58sec 追尾)
ポータブル赤道義で、追尾しながら撮影。
がめん中央にカシオペア座。右端にはアンドロメダ星雲も映ってます。



(2018.8.13 ペルセ05 by α6000 SEL24F18Z  F 2.0 ISO800 62sec 追尾)
ポータブル赤道義で、追尾しながら撮影。やや薄い雲があるような。北十字のはくちょう座
天の川かガスなのか。。。



(2018.8.13 ペルセ06 by α6000 SEL24F18Z  F 2.0 ISO400 63sec 追尾)
上の写真と全く同じ白鳥座ガスが晴れています。ISO下げているせいもあるかも。


結局どの写真にも写ってませんですねえ。24㎜は広角なほうですが。。。
流星撮影には12mmとかのほうがいいいのか。