昨日は終戦記念日でした。
日本で亡くなった方も大勢いますが、それ以上に、戦争なので、特に日本は、アジアの各地に侵略を行いました。その各地で日本の侵略の被害に会われて、無くさなくてもいい命を失った人が大勢います。日本人はこのことは忘れないほうがいいでしょう。多くのアメリカ人を殺していますが、それは戦争なので致し方ない部分があるでしょう。
ただ、アジアの各地に関しては、その殺し合いは、日本側から一方的に押し付けた形の殺戮と破壊です。
これらの被害者の冥福も、日本人同様に、日本人が祈り反省をするべきことです。
しかも、日本は他人の庭を荒らし回ったくせに、戦争に負けた敗戦国。
敗戦国のくせに、負けた国の態度を忘れたとき、報いがあります。
お天ちゃんも反省という言葉を述べてましたが。敗戦国の戦争指導者の末裔としての自覚を忘れずに、謙虚に平和を希求する姿勢は同じ場所にいた政治家もみならすべきでしょう。
ただでさえ、日本は、お手本にする大人が少なくなっています。
せめて国の現役指導者は、悪い手本ばかり見せず、良いお手本になるべきと思いますが。
池宮彰一郎平家(中)
池宮彰一郎さんの「平家」を読んでいます。
この中にこのような記述があります。
「国家と民衆の貧困・衰退を救わなければ明日の希望はない彼はその進路を海外に見た。貿易立国である。
彼がそう志すに至ったのは、父忠盛の実績によるものだった。忠盛は所領として得た神埼荘を拠点に私貿易を行い 時に太宰府の官人と揉め事を起こしたりして巨万の富を蓄え 清盛に遺した。
それが清盛飛躍の基になった。」
この部分を取り上げたのは、後述しますが、清盛の生きざまを知るうえで、彼の志をどう描くか、が非常に重要だと思うゆえです。
平治の乱後後白河と清盛の間には時に緊張が走ることもあったが、大枠平穏のまま藤原官僚群の無力化を目指す国政改革もあまり進まず。そんな中後白河は清盛の娘徳子を高倉帝の中宮にするようにはからいます。
清盛は後白河の意図を察して警戒し、ためらいつつ、これを受ける。後白河院の厳島御幸もあり、「平家の天下」を世間が認め始めていました。
一方、その陰で、反発もあり。満つれば掻くる。 退潮の兆しの一歩は後白河の寵愛を受けていた後白河の妻、平家の女、建春門院 滋子の死、でした。
池宮氏は清盛の国政改革、旧体制=藤原官僚制度の制御。が達成できなかった理由の一つに挙げているのは、協力者のなさ、です。
平家は一時朝廷の大部分を平家一門で固めたが、清盛の意思を理解して、これに協力する一門が一人としていませんでした。
嫡男の重盛はむしろ、旧体制に取り込まれており。穏健な態度は旧体制からは、御しやすいとなめられてもいた。
重盛と清盛の間に意思の疎通がほとんど感じられない。目的の共有がされていませんでした。
清盛にとって平家(一族)大事という思いは、晩年はほとんど見られなかったと感じられます。
清盛の弟、もしくは彼らの息子たちは、旧体制に取り込まれ保守的になりすぎた。保守は即、退嬰を意味します。。
まして、平氏にあらずんば人ではない。という、平氏一門にとって栄華を極めた時期でもありました。
このため建春門院滋子の死は突然ですが、平家の衰退のきっかけとしては大きな影響があるできごとでしたし、終わりの始まりの引き金として十分な出来事。
滋子は後白河と清盛の間に起こった揉め事では、必ずそのヒビや溝を大きくしない、長引かせない、ようにさする大きな役割をもった女性でした。
この直後、平家の専横に不満を持つ公家、皇族を集めた平家打倒の密議。鹿ケ谷事件が発生します。
そもそも、専横、と言って、平氏の人々による、あからさまな大きな専横の事件があったわけではありません。
むしろ清盛の志のため、既得権を奪われた、守旧的な藤原官僚群による反撃がじわじわ進んで、これが高じて、不満の高まりになったのでしょう。清盛の義理の弟、平時忠による、子供に京都市中を見張らせ、平家をそしるものがいると密告と直接子供たちに好き放題、暴行させた「六波羅の禿」という出来事はありました。いわゆる市民への言論圧力です。
これによって、市中の平家への評判はがた落ちします。
これは清盛の志とおよそかけ離れたことです。時忠の家の家風は乱れている、これは、清盛の妻、時子とその時子の産んだ子供たちににも受け継がれています。
恐らく、清盛がこれを看破せず、家のことを時子に任せっぱなしにしたことも平家没落の因だったのではないかと思います。そう思わせる事件がありました。清盛の次男、宗盛が、治承3年の馬揃えで見た、源頼政の子仲綱の馬を欲しがり、体裁として借り受けて、そのまま横領してしまった事件があります。
池宮平家では、この馬は坂東武者の和義盛の贈った馬、ということになっています。
木の下(このした)
宗盛は馬は素晴らしいが飼い主が気に入らないと行って、木の下に『仲綱』と焼印をおさせ、
客人が来ると「その仲綱めに鞍おいてひきだせ、仲綱め乗れ、仲綱めうて、はれ」と
もちろん、仲綱はこの話を聞いて、平家の恨みを深めます。
この話を聞いた仲綱の父、源三位入道頼政(よりまさ)も、平家を滅ぼしたいという思いに駆られます。
頼政に相談された、安徳帝の成立に憤慨した後白河の息子以仁王
による平家追悼の令旨につながります。
鹿ケ谷の事件の黒幕は後白河院でしたが、清盛は直接、後白河に手を下さず、院近臣の遠島、西光や藤原成親の遠島、処分にとどめます。
成親の妹を妻にしていた、重盛は成親の赦免を清盛に訴えますが、聞き入れられず。
そのすぐあと、重盛は死去します。さらに院近臣の藤原季能が越前守となり、重盛の知行国が没収されてしまいます。
その直後、清盛は軍事クーデーター(治承3年の政変)を起こし、白河院を鳥羽院から福原へ幽閉、院政停止にし、関白藤原基房の解官、太政大臣・藤原師長の解官。
基通が関白・内大臣・氏長者に任命されます。この事件に並行して、これまでどこに行ってたか、十郎行家が現れ、蠢動を始めます。
クーデターの跡、清盛は高倉帝を譲位させ、清盛の娘徳子と高倉帝の間に生まれた子を帝位につけ安徳帝を成立させます。
頼政に相談された、安徳帝の成立に憤慨した後白河の息子以仁王
による平家追悼の令旨発行。
行家にたきつけられた源三位入道頼政が以仁王の令旨のもとに反乱を起こし
最期は宇治平等院で立てこもり、自刃します。
行家によって、広められた以仁王の令旨によって坂東に潜んでいた頼朝が挙兵。
石橋山の戦いにつながっていきます。
中巻では、
石橋山の敗戦から頼朝の安房への逃避、三浦義澄のたった一人の籠城のうえでの討ち死に、頼朝のもとに駆け付ける坂東武者。
そして、富士川の戦いと、頼朝と義経の邂逅までがえがかれています。
さて、結局、清盛が藤原官僚群による、旧体制を変えようとして、どういう国の姿を目指していたのか、と言う部分はこの冒頭に書いたような、父忠盛が示して見せた、貿易や交易による立国であったと書いてあります。
父の跡を追ったもの、ということがおおきな動機になったとしているのですが、私自身のイメージとはややかけ離れていました。
清盛は、つまるところ、海が好きだった人ではないか、と私自身は他の平家物語を読んだ上で、感じています。
交易によって広がる見聞、世界の広がりに心が躍ったのではないかと思っています。
そして、たしかに、その交易によって得られる富によって、国を変える日本を富める国にする、目指すべき姿にしたのではないかと思うんですよね。
なので、池宮平家では神埼庄の清盛の若い時の感性を描いてほしい気がしました。恐らくそこに、彼が、わざわざ今日の都を捨て、海に近い福原に都を作る大きな動機になった何かがあると思うのですね。
残念ながら、平治の乱から始まるこの池宮平家では既に、上巻の時点で、清盛の頭にあるのは藤原官僚群を勢力とする旧体制の打破しかなく。
動機がこれだけでは、心躍るものではありません。たんなる、反体制家の姿しか見えません。これだけでは、革命家清盛が、やや小さく見えてしまいます。
さて、最終盤、いよいよ頼朝が挙兵しますが、私自身は頼朝という男は日本史上、最も非常に血の冷えた支配者だったと思っています。
しかも、恐ろしく小心もの。その後、武家政権が続き、勝者の側から歴史が描かれていったため、頼朝は恐ろしく美化されすぎています。
さらに、源氏の血筋でないと政権を担当できない(征夷大将軍位になれず、幕府を開けない)、ということになったため、
後世の政権担当者にとって、最も尊崇しなければならない、血統上でも尊祖とされてしまったのです。なんて非合理な。
実際の頼朝像ですが、いくら後世の人が美化しようとしても、それでも、血が冷えた部分は隠せるものではありません、加えて、
その後の彼の一族や子孫の哀れな末路を見れば、その原因が、頼朝の猜疑心強く、冷えた血のせいで、徳のなさを示すもので、その結果として源氏一族の哀れな末路を示すものでありましょう。
彼は平治の乱後、伊豆蛭が小島に遠島になり幽閉されているとき、自身の境遇をわきまえず、監視訳であった、伊豆の伊東家の女(八重姫)との間に子をなし、その子千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨てられるはめになります。
捨てることを命じた実の祖父伊東祐親の憤りのほうが、切ない。この場合、男のほうに多くの罪と責任があるはずです。
このころの頼朝、20代前半ですが、この一事を見ても、非常に無責任極まりない男であったようです。
その後北条家の娘政子との間にも娘大姫を設けますが、この大姫も悲劇的な最期を迎えることになったのも、父親、頼朝の冷血のなせる業といえるものでしょう。
挙兵初期、彼が美化される最初の場面は、石橋山の敗戦後、渡海し安房に逼塞しているなかで反平家の勢力を糾合する中で、上総国府での、上総広常との会見で、毅然として、広常の遅参を責めたというところでしょう。
これは本当のことなのか、最初、吉川英治の平家物語で読んだ際に、後世の創作ではないかと思いました。余りにに出来すぎていると思えたのです。
確かに、呼びかけへの最初の反応は弱かったもの、尋常ではない大勢力を率いて頼朝のもとにきて、しかも、当時、上総広常は、頼朝の出方次第では率いてきた大兵力(2万騎10万人と言われる)でもって、頼朝を捕らえ平家に突き出す、二通りを考えていたとされています。
そんな、怪しい心を秘めた広常に遅参を責める、と言う水際立った駆け引きが、この小心者にできただろうか。
いくら、後世の創作にしても、つじつまが合わなさすぎる。
彼に本当に、すこしでも山っ気や豪胆な面が、伊豆潜伏時代にあれば、叔父の行家が訪問するまで伊豆に留まっていたでしょうか。
少なくとも、伊豆潜伏時代の頼朝は、引きこもりで、監視の目を異常に恐れ、武芸をたしなむことなく、読経、写経に明け暮れる20年余を過ごしており、長い流人生活によって体に染みついたのでしょうが、平家に追われ汲々とする小心者で、決断力に欠け、猜疑心多く。どう贔屓目に見ても凡人以下の姿しか見えません。
なぜ、そんなかれが平家を滅ぼすに至ったのか。小心であったことや、猜疑心の強さも、その理由であろうと思います。
ただし、その結果、彼が失くしてしまったものが大変大きなものではありました。
平家物語でも、池宮平家でも、頼朝自身に、清盛のような「志」というものを描かれることはありません。
そもそも、小心者で猜疑心が強い人には志はありようがない。
いくら美化しても、頼朝には、そういった類の伝説すら存在していません。
さて、お次は下巻。清盛も挫折し、平家は滅びの道をどのようにすすむのでしょうか。
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