2018年8月25日土曜日

剣客商売全集(8)後半感想 

8月最後の土曜日の熊本も暑かったです。
菊池の奥の竜門ダムほうまでドライブしてみたのですが、菊池で37度、山上で34度くらいでした。
山上も暑い。。。。


剣客商売全集 8巻後半 「浮沈」

ほぼあらすじをかいてしまっておりネタバレになります。ご注意ください。

長編です。
冒頭、小兵衛の門人滝久蔵の敵討の立ち合いに出た小兵衛と、相手の立ち合いの剣士山崎勘助との激しい戦いの場面で始まります。
この戦いは小半時(1時間余り続く激しいもので、小兵衛自身、体に7か所も手傷を追いながら山崎勘助を斃した。久蔵も同じ時に、敵にとどめを刺し、敵討に成功した。
翌日、小兵衛の借金取りに来たのは平松多四郎。彼は人相があまり良くないため、わけもなく人に嫌われたりしていたが、小兵衛はそのようなことを気にする性質はないので、金貸し平松多四郎との間柄は穏やかなものであった。
その多四郎が涙ながらにその日妻の死を語った。小兵衛も壮絶な決闘の翌日の事であったからよく覚えていた。
とはいえ、26年も前で小兵衛が40の時。宝暦八年の事件。
久蔵は敵討ち直後こそ、小兵衛に涙ながらに感謝したが、国元の富山藩に戻って大評判になり役をもらうなどして、そのうち、小兵衛に便りすることもなくなり、そのうち、富山藩から消えた。
ここからは天明4年(1784年)
ある日、小兵衛がおはると蕎麦屋に出かけたとき、。蕎麦屋で騒ぎを起こした末に蕎麦屋の主人にわけもなく放りだされた男が滝久蔵だった。小兵衛は情けない気持ちでその一部始終を見ていた。
小兵衛は又六さんや弥七を使って滝久蔵の身辺を探ります。
しかし、その調べによると、身なりも普段の態度も、蕎麦屋での久蔵うとは重ならず、小兵衛は首をかしげる。
弥七親分曰く、「人間というものは。辻褄があわない生き物でございますから」
ちょうどそんな折に、又六さんが、杉原秀を伴って、小兵衛の隠宅に現れる。
おはるさんはすぐに秀が懐妊している孤島を見抜く。
又六さんは杉原秀と結婚したいことを小兵衛に報じて。この婚儀を認めない又六の母親を小兵衛から説得して欲しい、と願いでる。
さて滝久蔵は洋岳寺に身を寄せていることがわかり、弥七の仕事仲間の豊次郎という岡っ引きも洋岳寺を見張っている。さてそこに小兵衛が様子を見に行った際に大柄の浪人があらわれる。
小兵衛はこれの後追う。小兵衛には何となく見おぼえがった。26年前の決闘で、小兵衛が倒した山崎勘助に生き写しだった。
まさに、大柄の浪人が昔の決闘のあった場所深川に差し掛かったさいに小兵衛は声をかける。
山崎勘助の子息ではないか、と。
大柄の男は隠すことなく、勘助は父親であることを認め自らを勘之助と名乗るが、26年前はかれはまだ2歳で、父親が亡くなった経緯は病死と伝えられており、小兵衛も名乗ったものの反応が薄かった。
小兵衛は事のあらましを、弥七に告げ、傘徳さん含めて、山本勘助の息子勘之助の身辺を探る。
勘之助は、大身の旗本生駒筑後守の屋敷に出入りしていた。
小兵衛はその報告を受けて、神田駿河台の三つ年上の旧友、神谷新左衛門のもとを訪れて、生駒筑後守の評判を聞く。生駒筑後守は若い者の面倒見も良く、上にも評価されているそうな。
洋岳寺を見張っている、豊次郎と弥七は、人相の良くない商人風の老人が洋岳寺を出入りしていることを見かける。
この老人が寺子屋を開きながら金貸しをしていることまで弥七は突き止める。小兵衛もこの老人が、かつて四谷の道場を開いた際お金を借りた、平松多四郎であることを思い出す。
小兵衛は先日。主人が滝久蔵を追い出した蕎麦屋に行き、山崎勘之助を呼び出して、26年前の決闘の話をする。小兵衛は、勘之助に、自分は父親の敵なので、敵討ちする意思があるかどうか聞く。勘之助は恬淡と、そのような勝負は望んでいないことを小兵衛に語る。小兵衛はすっきりして、平松多四郎を訪ねる。
小兵衛は多四郎の息子伊太郎の話を聞き、すぐ後ですれ違いざま話しかけて。伊太郎は好青年であるように思う。
小兵衛はおはるさんや、弥七親分や傘徳さんを連れて軍鶏鍋屋の五鉄に軍鶏鍋を食べに行った帰り、久しぶりに小川宗哲先生の家に碁を討ちに出かける。宗哲先生にも、平松親子の話をする。
五鉄は、鬼の平蔵を描く、、鬼平犯科帳にもメジャーに出てくる料理屋ですねえ。
小兵衛が宗哲先生の家から帰宅する際、他人の襲撃事件に遭遇する。
襲撃され重傷を負い倒れていたのは、山崎勘之助であり、小兵衛は驚く。
勘之助は、宗哲先生の知り合いの三島某の屋敷で一時かくまわれる。
さて、弥七が洋岳寺の和尚から聞いた話では、滝久蔵は仕官の見通しが付きそうだという。
仕官にはお金がかかる。先日の洋岳寺付近で見られた、金貸しの平松多四郎のことがあり、小兵衛はもしやと察し、小兵衛自ら、平松の屋敷に赴いて、多四郎に聞いてみると、案の定、久蔵は多四郎から金を借りている。
多四郎曰く、久蔵は貸しても返すのが約束通りではないので。多四郎曰く久蔵は小狡いところがあって、言い逃れをするので貸したくない相手だという。
小兵衛はその足で、三島家の勘之助を見舞うが、怪しい浪人が門で見張っていた。
また、小兵衛が三島家を辞去した際も、小兵衛自身が後を付けられた。途中で心配になり、三島家戻って、小兵衛が三島家に泊まって警固することになる。
翌朝。おはるが、神谷新左衛門と三島家にやってくる。新左衛門が曰く、生駒の殿様は若いころ、佐々木勇造道場で修業したことがあり、佐々木勇造道場は山崎勘之助も通っていた道場である。生駒の殿様は心を許した同門の友人があり、それが死んだので、今はその息子に肩入れしていると聞いた。
勘之助は、宗哲先生の治療によって大分持ち直し、小兵衛の隠宅に引き取られる。
傘徳さんも常時、隠宅に詰めていたが、それでも不安な小兵衛は杉原秀に来てもらうことにした。又六は母親を連れて隠宅にあいさつに来る。又六の老母はこのころになると秀の懐妊を知り、小兵衛の説得に、又六と秀が夫婦になることを承知した。勘之助は、襲った曲者の中にもと佐々木道場にいたものが混じっていた。勘之助は佐々木勇造が亡くなった後に道場に起きた後継者をめぐるもめごとを小兵衛に話す。勘之助はもともと身を引く自摸地だったが、対抗する木下求馬(もとめ)を押す一派があって、木下求馬は千二百石の旗本木下主計の次男
求馬は次男なので木下家を継げないこのため。道場の後継になろうとする気持ちが強く、ついに求馬から勘之助に、真剣勝負の申し出があった。
いろいろいきさつはあって。勝負を受けることになった勘之助は、決闘は半時に及び、求馬とかれの立ち合い久貝某の二人は勘之助に斬られる。勘之助はその後姿を消し、木下家には遺恨が残った。

小兵衛の隠宅に木下家に雇われた浪人が近づいて、杉原秀の投げた鋏に追い払われる。
ただ者ではない雰囲気に、小兵衛はその浪人は見知った男だと秀に話す。
過去に、伊勢の藤堂藩への仕官が小兵衛のせいでうまくいかなかったことを恨んでいる、伊丹又十郎だという。
秀さん、懐妊していますが、大活躍します。
さて同時、平松多四郎が洋岳寺の久蔵のもとに行き、借金の取り立てをしますが、結局久蔵は難やかのと言って、証文まで作って日延べします。
おはるが、避難していた実家から戻ってきて、小兵衛が何事かささやいて、夜、隠宅には秀を残し、小兵衛と、勘之助は、小舟に乗っておはるは明かりを消して大川を渡る。目的地は隠宅の対岸にある船宿の鯉屋。
鯉屋には駕籠かきが待っていて、駕籠に勘之助が乗ってどこかに去っていく。
小兵衛は隠宅に戻り、。小兵衛が語るには、勘之助は生駒屋敷でかくまってもらった。
小兵衛の隠宅の周りに不穏は空気に包まれて、秀は3人の浪人に取り囲まれるが手裏剣の蹄の効果てきめんd猫の怪しげな連中を追い払う。小兵衛はそれを聞いてそろそろ準備をしなくてはとう動き出す、秀に何事か依頼し、どこかに向かわせる。
さて、一方、改めて証文を作って日延べした滝久蔵のもとにその日延べの期限に平松多四郎が取り立てに行くと。久蔵はしらを切って、多四郎は奉行所に訴え出るが、なぜか、幕府の評定所の調べになり、この件、最後にはなんと、久蔵はしらを切りとおし、平松多四郎は証文を偽造した罪で死罪と決まり打ち首になってしまいます。
人相が悪いせいで評定所の役人の心証をわるくしたせいではないか、と多四郎の息子伊太郎は思いますが、さすがに悔やみきれず、小兵衛のもとに相談に行きます。
多四郎の一件が評定所で行われている間、伊丹又十郎は牛窪為八という、槍使いを誘って、小兵衛の隠宅を襲う。
しかし、隠宅にいたのは、勘之助ではなく、小兵衛の息子、大治郎だった。
牛窪単八は大治郎に斬られ、伊丹又十郎は、小兵衛に言われて、分の悪さを悟って一旦退散する。
さて、小兵衛が伊太郎から相談を受けたのは多四郎が打ち首になって三日後の事。
さすがに小兵衛も驚き、しかし、伊太郎は決然と、お上のやりようが腹に据えかねると言い、刑場でさらし者になっている父親の首を一人でも奪い取って、自分の手で弔ってやりたいと、小兵衛に相談し、小兵衛はこれを手伝うという。
小兵衛は、伊太郎の手伝いの前に、滝久蔵を別の蕎麦屋に呼び出し、恩人の多四郎を殺したことを面と向かってなじる。
「わしはな、その平松伊太郎の助太刀をするやもしれぬ」
凄く光る眼を据えたまま、つぶやくように小兵衛が言うと。
小兵衛がただ抜いただけの刀の光を見ただけで久蔵は気絶して倒れる。
さて、刑場で、伊太郎と小兵衛は多四郎の首を取り返そうとしている。
伊太郎の着物座り方を見て、それほどなら敵討ちできるぞ、というが伊太郎は、かたきうちなど、ばかげている、討つほうも討たれるほうもろくなことにならない。」
首の奪取はうまくいって、平松家の菩提寺になっている寺の和尚も着物座った人でちゃんと守ってやるという。
和尚からも選別をもらい、伊太郎は江戸を離れて身を隠す。小兵衛は別れ際、もし父親の跡を継いで金貸しをするならいつでも相談にきなさい。元手にはこころづもりがあるから、という。
恐らく金貸し幸右衛門の遺産の事でしょうね。
事が収まってのち、小兵衛は弥七に顛末を説明するが、弥七曰く、お上は知らぬ顔して伊太郎を探す様子はにという。なかったことにするつもりのようだ。
伊丹又十郎の動向は、弥七親分と傘徳さんが張っておりつかんでいるが、大きな動きは内容dす。
そんな中、田沼意次に加増の沙汰がある、といううわさが流れ、小兵衛は眉を顰め、悪いことが起きそうな気がすると心配をした。
ここまでは天明4年(1784年)
弥七親分と傘徳さんが歩いているときに
伊丹又十郎と浪人東レ違い、跡を付けると、二人は亀沢町の小川宗哲先生の屋敷の回りを見回ったあとまt十郎は三人の浪人と蕎麦屋座敷で集まっていた。
弥七と傘徳さんは小兵衛に報告し、又十郎たちは
宗哲先生をかどわかすつもりではないかと考える。小兵衛は、宗哲先生の家から目を反さないように、弥七親分たちに念を押す。
そんな中、宗哲先生の姿が消え、又十郎の隠れ家に小兵衛と大治郎や弥七親分、ほか、が囲む。
隠れ家に突入し、小兵衛と又十郎の対決は、一瞬の間で、小兵衛が見せた、無外流の居合道の一つ、霞の一手で肩を付ける。浪人や伊丹又十郎らはすべて捕まり、小川宗哲先生は無事に救出されます。
山崎勘之助は小兵衛の勧めや生駒の殿様の説得があり生駒家の家来となり、中小姓として仕官することになった。
杉原秀と又六さんも夫婦になり、不二楼で婚儀が行われる。
ここまで天明5年(1785年)
明けて天明6年、将軍家治の病が重くなってこの年の秋に病没する。
翌天明7年十月田沼意次は隠居を命じられ、意次が失意のうちに病没したのは天明8年の夏。
伊太郎の話になり、江戸を離れて一年後、戻ってきて、小兵衛の隠宅に現れた、滝久蔵は逐電し行方知れずになっている。伊太郎はこへえから50両渡され金貸しを始め、三月一度は隠宅に顔を見せていた。
1年後にお金を返しに訪れて差し出したお金は100両になっていた。伊太郎曰く、金貸しは儲かる商売だが、すっかり、うらおもてがわかってしまって飽きたという。その後伊太郎は旅に出て江戸を離れ、7~8年たった、寛政5年1793年の夏に、隠宅に現れた。身なりも良く、町人姿ながらめっきり貫禄が付き30前後の女を伴っていた。
伊太郎の妻の八重というそう。伊太郎は京都で筆問屋をやっており、中村屋忠兵衛となのっていて、娘が一人で来ていた。
この長編、浮沈、というだけあって、様々な人の人生の浮沈があり、また時間軸も長いです。
1738年の滝久蔵の敵討ちの事件から始まり、伊太郎が中村屋と名を変えて、妻を伴って隠宅の小兵衛を訪れたのが1793年。まさに55年の間。
ついに、お話として剣客商売の幕は下りてしまいましたが、小兵衛は90過ぎまで生きるようなので、小兵衛の話は続けようと思えば続けられたのに違いないのですが、池波先生はここで、終えています。

噂によると、大治郎の息子、つまり小兵衛の孫、小太郎を主人公にした話の構想はあったとか。。。
ただ、時代的には剣客、侍の世の中ではなくなっていく時代背景もあり、剣客としての活躍は難しいでしょうねえ。







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