2018年8月14日火曜日

うなだれるひまわり

颱風リーピが予想外に北よりにコースを変えて、明日未明九州上陸し九州、熊本を横断しそうです。
図中の赤線はかつての予想進路。
うちに最も近づくのは明朝。
降水予想で明日朝の6時くらいの予想図を見ました。
明日は雨ですなあ



先日、ニュースで、宇城、豊野のひまわりのニュースを見ました。
見に行ってこよう、と出かけたのが今日。
熊本市北部の自宅から、宇城豊野まで、3号線使って、およそ1時間半。
豊野、糸石にあるらしい、しか分からず、行けば看板とかあるんじゃないか、と、かなり適当に考えて、行ってみたものの。3号線から218号線に乗って、豊野を超えて、美里町まで行っても看板なんてありゃしない。
そこで、糸石にあった、コンビニで店員のお姉さまにきいてみたところ、、軽く笑って新設に絵をかいて教えてくださいました。軽く笑ったのは、あーやっぱり分かんないわよね。の苦笑?だったのでしょうか。
で、いってみたところ、途中で変な看板のせいで、迷子になりかけましたが、コンビニのお姉さまの手書きの地図通りに行って間違いなく到着。

神社が目印ですが、この神社と、その境内にある看板については、予想外の収穫だったので後述。
写真はすべてクリックすると拡大します。


神社の入り口にこのような案内板がありました。

この案内板を、もっと手前においてほしかった、、、
子の案内板の近くに車を置いて、そこから歩いて行ってみると。


現場に到着。なんか怪しげな感じ。予想外に緑が多いぞよ。


kの看板を見ながら少し登ってみると。



来てみると。ガーン。全部のひまわりが暑さでか、うなだれ気味にしおれとる。

ここから下は、うなだれた残念な姿のひまわり映像です。













一同、礼! みたいな。





ショボーン、スンマセーン、みたいな。

ショボーン、スンマセーン、


サーセン的なヒマワリ






みんなでガックシ、的なヒマワリ。


さて、神社の話ですが、名前は相良神社と呼ぶようです。


鳥居をくぐると、やや新しい、小さなお堂があります。





ちいさなお堂は相良堂というようです。再建して新しくなっている風ですが、県史跡とありますねえ。
不思議な。

帰宅後、このブログを書く前に、調べて見ると、、宇城市のサイト
https://www.city.uki.kumamoto.jp/kankou/q/aview/113/93.html

以下のような説明があります。

『享保15年(1730)に、惣庄屋の中山孫左衛門によって建立された響ヶ原の戦い(天正9年(1581))で没した相良義陽とその家臣を祀るための堂。相良義陽の家臣であった犬藤頼安によって没時に供養碑が建立されており、これを保護し供養するために建てられた堂です』


そう、先ほどのひまわり畑の周囲、少し台地状になっています。
まさかこの地が、あの有名な響が原だとは。
響が原とは、かつて戦国時代に、上述のような、響が原の戦いでゆうめいになった場所。
古戦場です。

鎌倉時代以降から、人吉付近を収める領主(地頭)が、名族相良氏。
徳川期も生き延び、人吉藩の大名として幕末まで残ります。鎌倉時代の領主が同じ場所で残るというのは全国でもそう多くありません。九州では薩摩の島津家。人吉の相良家。
相良家もその間、様々な苦難を乗り越えてきましたが、戦国末期の九州。島津家が薩摩大隅を平定し、北上しはじめ。
天正6年1578年。日向伊東氏を攻めたことがきっかけで豊後大友氏が出張って日向の耳川で大きないくさになり、大友家はみじめに大敗し、多くの名だたる武将が戦死。これをきっかけに大友家は衰退を始めます。
その後、島津はすぐに日向を平定し、豊後に攻め入ることはせず、肥後に侵攻します。
肥後は人吉の相良家と、益城や阿蘇の宮司家だった、阿蘇氏が庇護の大きな領域を占めていまいした。それ以外の地域は菊池家がいたのですが、肥前の龍造寺と大友支配で転々としており、ローカルな豪族がそれぞれのパトロンをその場その場で都合よく変えながら割拠している状態。
相良氏は早い時期から島津とよしみを通じていました。

このため、島津家は益城を収める阿蘇氏を取り込むため相良氏を先兵とします。
当時の相良氏の当主、相良義晴は阿蘇氏の名臣御船城主甲斐宗運と厚い盟友関係を結んでいました。
友情を取るか。お家の大事を取るか。
義晴は守りにくい響が原台地上に陣を敷きます。島津の侵攻と相良軍の出兵を聞き、相良軍が響が原に本陣を敷いたと聞いて、宗運は耳を疑います。あんな場所では負ける気か?と。
甲斐宗運は一気に相良義陽の陣を奇襲、相良勢は壊滅します。
相良義陽は退却を勧める家臣の言を無視し、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたといいます。
義晴は、盟友甲斐氏と相互不可侵を誓い合っていましたが、膨張する島津の勢いには抗えず、
意に反して、益城に軍を進めてしまったことを悔やんでいたのでしょうか。
まるでその盟約違反を懺悔するかのように、悲劇的な終わり方をしています。

この相良義晴の首やこの戦で戦死した相良家臣の亡骸を供養するために縦らえたのが相良塚で、その後、その塚にお堂が建てられ、相良堂されたのですな。
相良神社の境内には響が原合戦に関する案内板もあります。夏草に埋まって、目立ちませんが。
夏草や兵どもが夢の跡、を地で行く感じ。









ひまわり目当てに来てみましたが、ヒマワリは残念ながら、響が原合戦で負け、うなだれる相良兵を思わせる残念な姿ではありましたが思わぬ古戦場訪問になりました。













































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