2018年11月19日月曜日

スキタイについて(その一)

ここのところ続いている、秋の写真キャンペーンから転じて、今日は別のお話です。
相場も、先週末の全く意味が分からん半導体関連の下げが、案の定戻してりせっとされました。
なんなんでしょうね。
相場はしばし、静観。年末、年度末にかけて戻し相場と考えています。
近いうち、下半期の配当が郵送されます。ありがたい、ありがたい。


以前、興味があると言ってたスキタイについて。
今日から少しづつ書き留めます。(カテゴリーは東洋史に入れます。東洋ではないのだけど,遊牧騎馬民族なので、大きなくくりで東洋的な文化ということで。どんなくくりだ!)

<スキタイの時代と場所。>以前紹介した本に、「スキタイは民族ではない。」と。書いてありました。
スキタイ人、と言うものはあるようですが、これをスキタイ民族とは言わないようです民族という言葉の定義の話になってしまいそうですが、ここでは割愛します。
ただ、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはスキティアに住む人々を差して、スキティア人、正確にはスキュティア人と呼んでいます。

スキタイとは、ユーラシア大陸のちょうど真ん中にある湖、黒海、の北方沿岸部の草原に現れた騎馬民族です。現在のウクライナ共和国付近。
ただ、言い伝えに寄れば、彼らは遥か東、カスピ海の北から進出してきた
前述のようにギリシア人はスキタイ人の住む土地を指して「スキティア」と呼んでいました。この逆かもしれません。
スキティア人の起こりは紀元前10世紀もしくは紀元前8世紀に遡ります。
Wikiには「紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系[1][2]遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイとも表記する。」
とありますが、
実は、少し違うというような気がします。
紀元前8世紀~紀元前6世紀頃までを初期スキタイ
とした場合、その前からスキタイの文化をもった人々が存在した形跡があります。
その人々、紀元前10世紀~紀元前8世紀ころを先スキタイとします。
が、このころほぼ同時期、スキタイ文化というものが出来上がる前に、キンメリア人のキンメリア文化が南ウクライナ(黒海の北)がありました。
キンメリア人も、遊牧騎馬民族です。
キンメリアとスキタイは同じだという研究者もいますが、スキタイはややアジア的な文化があります。と、私は感じています。
(スキタイをイラン系遊牧民という呼び方をすることがあります)
この二つは全く別であるという研究者もいます。
スキタイの初期がどうであったか、ギリシアの歴史家、ヘロドトスは、以下のように書物に記しています。

「スキュティア人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方に移ったという。今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。 」

さて、紀元前10世紀~8世紀~3世紀という700年の間、スキタイはその文化を続けていきました。
当時、日本は縄文式土器の時代の末。日本の縄文時代は1万年も続く長い時代なので、縄文時代と言っても、紀元前10世紀(今から3200年前)は晩期に近いです。
縄文人ですら、稲作を始めていたころ。
当時の日本に馬が居たかどうか?。弥生以降の古墳時代になると埴輪に馬が出てきますが。
日本の在来馬の起源も、この時代に、大陸から伝わってきたというものらしいので。縄文、弥生時代、それ以前には日本には馬はいなかった、と言うことになります。
都井岬の御崎馬など、古来から日本にいる馬、と言いますが、これら皆、外来生物なんですね。
ブラックバスと一緒じゃん。

スキタイの話からそれますが、考古学の分野ではスキタイやキンメリアの前はどうであったか?が気になりますね。
「ヤムナ文化」という文化圏が存在したとされています。キンメリア人の祖先がその文化の担い手であったとなっています。紀元前3600~同2200年の間続いています。
この後にキンメリア、スキタイの文化や人々の登場になります。
このヤムナ文化を代表するのはお墓の形式です。古代文化はお墓の作り方で文化の違いを論じたりすることがよくあります。
日本でも、甕棺や古墳など。
ヤムナ文化のお墓は地面に縦穴を掘って人をそこに安置する形式、そしてそのうえから黄色土で
覆ったり、石や木でふたをする、という形式。
このため。ヤムナ文化は別名、竪穴墓文化、黄土墓文化、と呼ぶそうです。

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