2018年9月18日火曜日

村上海賊の娘を読んでいて、自由と義務責任を考える。

熊本市は今日は一日晴れてました。最高気温は31度。昼間の散歩は暑い感じはありましたが、湿度が低いせいでサッパリしてました。k尾の前まで殺人的な暑さだったのが嘘みたい。
9月頭の週を最後に、燕も見なくなって、セミも鳴いていません。
先週はトンボがいっぱい群がっていました。
季節も秋が深まってきてて、一日一日と日が短くなるのを感じます。
特に出社時間がいつも5時過ぎなんですが、つい先日まで朝日がまぶしかったのに、今日なんて、まだ真っ暗。少し雲が東の阿蘇山の方にあったため。かな。
帰りも、早ければ15時過ぎに帰りますが。通常の定時18時過ぎに車に乗り込むと、ついこの間まで夕日がまぶしかったのに。もう夕焼けすら見えず。
今年の夏場は朝日も夕日も赤みが強かったです。

村上海賊の娘
を読んでいて、
自分がその主人公に何一つ共感するところがないことに気が付きました。
むむ。話としては面白いのに。
自分が海賊に何やら憧れのような意識があるのは以前にも書いた通り。これは自分にもしかしたら、海賊(漁師含めた海族)の血が流れているせいではないか?
と思っていました。
読んでいて、なんとなく、感じたのは、やはり自分は何か、枠(形式)に嵌ったような生き方が面白くない、と感じる性格のようだ。
自由気まま、と言うのは、言葉でいうほど、簡単じゃない。
組織に縛られない、という生き方も同じく、
そこには重く、自己責任というものがもれなく付いてくる。
自己責任の軽重の感じ方は人それぞれ。軽く見る奴は、無責任と言われるだけ。
自由と責任と義務は表裏一体。
組織と言うのは、そんな個人に向けられた責任や義務を、組織という大きな存在で薄め、希薄にする。
組織に居れば、責任を取らなくてもいいという訳じゃあない。
しかし、それなりの立場の人が責任をとり、組織全体で責任を取る、ということになる。
海賊、遊牧民に共通するのは、組織の面倒くささがなく、、自由な空気が色濃く残っているからだろう。
無論、そういった海賊には海賊のルールがあり、遊牧民のルールがある。
例えば、海賊の娘では、上乗りと言うルールが存在し、関所もあった。海上の関所で通過料を払えば、旗や通行札が交付されて海上の通行の自由と安全を海賊が保証した。
なんでも自由、というわけにはいかないものだ。

さて、一方村上海賊の娘、景が、海で出会って命を救った、廻船の農民たちは安芸門徒(一向宗)が石山本願寺(後の大阪城)に兵糧を運ぶ途中だった。
話の行きがかり上、この農民に肩入れして、上乗りとして泉州堺港まで同行することになり、途中、織田家の家臣の首を討ち、泉州方面の司令官の一人塙直政(この当時,原田直政)に詫びを入れて許されたところ。
相変わらず、その他武将の描き方がいちいち、軽く、原田直政ほどの人物が軽薄。直政はどうにかならなかったのかねえ。
泉州の海賊衆と言う立ち位置に、真鍋七五三兵衛(とかいて、しめのひょうえ)の親子が出てきますが、軽いというか、雑な海賊の親方。よく書いて、豪快。
他に、沼間(とかいて、ぬま)任世、松浦安太夫が出てくる。真鍋家はもとは備前の出であるらしい。塩飽のあたりの海賊が流れて泉州にいついたものらしい。
泉州と言えば堺、確かに室町後期から栄えた、日本を代表する大きな港なだけに、海賊衆もいるだろうと思っていたが、全く知りませんでした。
紀州、泉州あたりの海賊と言えば、遠く平安末期~鎌倉初期に活躍した、熊野水軍。しか思い浮かばない。
沼間あたりも、そういった手合いか。と思いきや。
泉州、河内の言葉は汚い。
これは、この本では戦国期ころころ主筋(つまり国の守護)の顔ぶれが変わり、安定した主従関係を築けなかったため、としています。
別のサイトで調べると、
沼間氏が和泉にやってきたのは、南北朝時代、楠木正成の一族和田高家が岸和田城に居城した頃、和田氏の老臣として、目形氏(女形氏)とともに下向してきたともいう。
 沼間氏は、戦国末期の和泉国でもっとも勢力の強い国人であったと思われる。
とある。
沼間、真鍋、松浦という泉州の海賊は、この後。。。
という歴史上の事実はさておき、海賊はみな性格の良いあんちゃんとか、おっちゃんに描かれているのは、少し行きすぎかな。
著者も、海賊に憧れのある人なんだろう。が、軽すぎる。
このままいくと、週末までに上巻読み上げるだろうな。













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