2018年9月21日金曜日

村上海賊の娘 上巻 の感想、明日は昼前から晴れてくる見込み。このスキに洗濯しないと!

今日も朝から雨。午前中は心臓リハビリの日です。午後出社しました。
人によっては明日から3連休ですが、自分の会社は月曜出勤日。普通に会社が営業中。
天気予報によると 明日は昼前から晴れてくる見込み。このスキに洗濯しないと!



村上海賊の娘、ついに上巻読み終えました。しかししかし、図書館の返却期限まだあと1週間あります。

物語は、織田家による石山本願寺攻撃の直前から始まります。
信長は、本願寺を取り囲むように、東西南北に砦を築きます。
一向宗相手の戦は、信長は既に何度も経験しています。伊勢の長島攻めはまさに苛烈でした。彼自身の弟もこの戦で戦死し失っています。
一向宗の信者を一向門徒と言いますが、その宗祖、親鸞が、一向に「南無阿弥陀仏」と仏を念じる、つまり念仏さえすれば成仏できる、死後極楽に行ける、と説いた教え。
このため、一向宗、現在では、浄土宗、真宗、浄土真宗。という呼ばれ方をしますが。
加えて、この時代、の一向宗教団のトップであった、顕如、教如が信長に反抗していて、信長を仏敵と叫び、門徒をあおり、織田家と並び立たずという立場で戦いを続けます。織田家(というか武家側も)当時の地域支配のシステム(封建制度)に並び立たない勢力(宗教組織の力)による武家打倒にたいして抗います。これが武家と宗教勢力の対立を産みます。
時代は様々ですが、東も西も、洋も和も、無用の力を持った宗教勢力と武力勢力の衝突があります。私自身も、西洋も東洋も一般的に正義は非宗教勢力にあります。宗教勢力こそ、力のない弱い立場の人を惑わし、洗脳し、人ではない存在に名を借りて、こういった立場の弱い人々を狂わせ死へと導きます。
現在でも、イスラム原理主義の人々が良い例です。
こういった宗教勢力に抗った側の人々が、のちの世に悪魔、という風に呼ばれますが、織田信長は仏敵とか第六天魔王、と呼ばれています。
しかし実は、古今東西、宗教指導者のほうが、むしろ意図的であるがゆえに、大いに悪の極みです。
宗教というものは、薬にもなるかもしれませんが、強毒でもあり、まさにこの時代の一向宗門徒は、平時はただの農民でした。
たまたま、一向宗の門徒、とくに、一向宗は村という地域コミュニティを丸ごと信徒にするようにして組織化しました。
これを「講」と言います。講を拡げ、門徒の数を増やしていきますが、村上海賊の娘「景」がたまたま海上で出会った信徒も、その総本山である石山本願寺の危機を見て、兵糧を運び入れようとした、安芸国の講の一団でした。
彼らも純粋に信心の一つとして、総本山の危機を救おうと立ち上がっただけの純朴な農民の集団にすぎません。
教団はこういった純朴な信徒を利用して、教団の政治的な立場を守ることに利用します。
行きがかり上、この安芸門徒を石山本願寺近くの木津砦に運ぶ羽目になった景は、途中、織田方の塙直正(原田直政)、泉州侍や泉州海賊の真鍋七五三兵衛や、沼間義清、松永安太夫、寺田と出会い、織田家と本願寺勢力の戦いを織田家が包囲網の一つとして築いた天王寺砦で織田方からこの戦いを見ることになります。
後半、天王寺砦の織田方の泉州侍や原田直政が木津砦を攻撃する陸戦の情景が続きます。
先日も書いたのですが、自分がこの物語の主人公の景に、共感するところが全くないことに、この後半に差し掛かったあたりで気が付きました。
物語自体は面白いのですが、景の人となりに、女であるからかどうか共感を感じません。感心するところもない。
終盤、彼女は行きがかり上運び入れた安芸門徒に同情?感情移入して救い出そうと、天王寺砦内で騒ぎを起こし、監禁されますが、その際、七五三兵衛に呆れられ、一方感心するところを見出しますが、まさにそんな心境。
なんつーか、子供じみた了見の狭さに、なぜ彼女が主人公なのか、と疑問を持たずにいられませんでした。。。上巻だけ見て、彼女が今後成長するような兆しが見えませんでした。
成長するのは謙虚さが必要なんですよ。基本、彼女は何事も上から目線で、生き方が決まっている風だからな。
門徒に感情移入しているところが、前半の流れとガラリと違うので、作者のキャラクター設定に矛盾や破綻を感じざるを得ない。
あれ、海賊て、そんなんだっけ?海に生きる人間はもっと謙虚で良いと思うんだけど。
景は序盤は颯爽としていますが、安芸門徒を助けて難波に向かうあたりから、なんかちょっと違う感が見え始めます。その場その場のアクションがとってつけた感、満載。一貫性がありません。
前半の性格で、天王寺砦に出くわせば、門徒に感情移入することはそもそもないはず。門徒に感情移入するような、景と門徒の間に共通項、景が彼らに共感を覚えるところがあったかな?
もし、安芸門徒の多くが元海賊の流民と言う設定ならば、あり得るでしょう。むしろ海賊が襲う、農民だし。海賊からすると、農民と言うのは陸に縛られた窮屈な生きかたしかできない人々。
加えて、こいつら、土地だけでなく宗教にも縛られている。恐らく前半の性格の景であれば、そんなん自業自得じゃわ、と捨てているはず。いくら行動を共にしたと言っても、それは成り行き上なだけで、海賊としては
十分上乗りしてやったところで清算できているほどのこと。負い目に感じるところすら一点もない。
こんなところも、この話や景に共感を覚えにくい、ところかもしれません。
恐らく、下巻は第一次木津川口の戦いが舞台になるのでしょう。。。あるていど結末を知っているので、七五三兵衛の動向がきになるところ。

さて、この本を読んで、今更知ったのは塙直政。
その人物はマイナーながら存在は知っていました。信長の親衛隊(赤母衣衆)上がりで、将来の九州戦を見越して、九州の名族の苗字「原田」を与えられた、明智光秀に並ぶ出頭人。
かれは光秀ほどの活躍をしているわりに、マイナーなのが不思議ではありました。
この本での、死に様が、鈴木孫一率いる雑賀衆の待ち伏せに会い、孫市自ら直政を撃ち殺します。眉間を打たれて落馬してもなお、石山本願寺に向けて這ったていた、と言う表現があります。
その直前、泉州侍に、「ええ奴ちゃな」(このええ奴、はええ奴ほどすぐ死ぬ、と言う意味合いを含んでいます。)と思われるほどの真面目さで、織田家に仕えているのです。と言うシーンがあります。
その原田家、実は、歴史上では、この天王寺の戦いの敗戦(木津砦を取れず、石山本願寺の門徒宗1万5千に天王寺砦を囲まれ危機に陥った。)のすべての責めを負わされる形で塙家は没落します。
この戦いでは直政だけでなく、直政の叔父など一族の有力者が死んで、その後塙家を盛り立てる人がいなくなったことも大きいのでしょうが、信長はこの忠臣をいなかったことにしたに等しい扱いをしています。
このことは自分はあまり知りませんでした。し、信長はそこまで薄情な人であったかな?という疑問がわきました。

さて上巻はここまで。全体的に話のテンポが良く、登場人物の多くが性格が軽く、からっとしているので、それが気にならなければ
サクサクっと読み進む感じです。
天王寺の戦いすら戦国のどろどろ感はほとんどありません。
一向宗門徒の死兵、こそに時代を超えた気色悪さを感じます。
また、その門徒に教祖親鸞が見れば目を剥いて怒ったに違いない「進めば極楽、退けば無間地獄」、と書いた旗を見せつけて督戦した下間頼竜はどろどろの権化か。
ただ、頼竜は根を悪く描かれていません。話の流れ上、悪役を頼竜を引き受けただけ、悪の根っこは本願寺(もしくはこの時代の宗教)そのものでしょう。
教如をはじめとする本願寺が、信長と対立しなければならなかった理由が、いわば権力闘争、いや、単なる縄張り争い。
景が感じたように、この場では正義は信長側にあり、わざわざ、門徒を狂わせて死へ追い込む必要性は一切なかった。
本当の悪役は目に見えない、この本ではあまり表に出てきませんが、当時の一向宗の中枢にあったと言えます。
武士が土地を欲しがるのは、それは人間が空気を吸って生きているようなもの。
流れが漫画チックです。時代背景やある程度登場人物を知っているから読み進むに差しさわりがないのか。。。
そのあたりはよくわからない。
ただし、読むきっかけが自分のルーツに村上家に連なりそうなひとびとがいたり、海での生活を生業にするひとがいるので、なにかしら感じるものがあるのではないかと、自分の血が望んだので、読んだ割に、主人公に全く共感しないという、意外な展開。
ともかく、下巻で、景への評価が変わるでしょうか。多分、下巻で父親の武吉出てこないはずだなー。
むー

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