2018年3月18日日曜日

香乱記1~4(新潮文庫)

極最近まで秦末期の楚漢戦争時の斉の田横を詳しく知りませんでした。
と言っても、史記における、彼の既述は、クライマックスとなるのは、彼の死に様を述べた
以下の部分です

史記田膽列伝より



劉邦中国全土を支配した後、斉=今の山東半島辺りがなかなか鎮圧できなかった。特に大きな勢力があった訳ではなかつたが、住民が草の根の活動で田横を支えていたからだ
そんな田横に劉邦は一目会いたいと考えた。
何度か招請の使者を送り、ようやく、田横は、劉邦がいる都の洛陽に向かう。


且陛下所以欲見我者不過欲一見吾面貌耳
今陛下在洛陽今斬吾頭馳三十里閒
今陛下在洛陽今斬吾頭馳三十里閒


形容尚未能敗猶可觀也

といって、自ら首をはねる。以下続く。


宮城谷さんの香乱記を読みましたが、最後の10ページは不覚にも入院中のベッドの上で泣きっぱなしでした。溢れる涙が止まらない。止まらない。

その原文にあたる、史記の部分が、ここに挙げたテキストになります。

宮城谷さんの表現では、謁見のシーンはこのようになっています。


首だけの姿になった田横を引見した劉邦は、
香乱記では、
劉邦には生きている田横の容姿をみるよりも、首だけの田横を見たほうが、田横の全象がより明確にわかった。突然、劉邦は両眼に涙をためて、以下史記原文の引用に続く。



高帝曰嗟乎有以也夫起自布衣

漢高帝劉邦曰く、「ああ、ゆえ有るなりかな。無位無冠より起(お)こし、

兄弟三人更王豈不賢乎哉

兄弟三人はかわるがわる王となり、どうして賢者ではないだろうかな(賢者である)」と、

為之流涕而拜其二客為都尉

この為(ため)に涙を流した。しこうしてその(田横の)二人の食客(賓客)に官をさずけて漢都尉と為し、

發卒二千人以王者禮葬田橫

歩兵二千人を発して、王者の礼(れい)を以って田横を葬(ほうむ)った



宮城谷さんは、ここまでの記述から、香乱記四巻(新潮文庫)にしたんですね

『楽毅』以来の衝撃と感動がありました。
1日経ったが、読後の空虚感感が尋常じゃない







既葬二客穿其冢旁孔皆自剄下從之

既(すで)に葬(ほうむ)りおわり、二人の賓客はその墓塚の傍(かたわ)らに孔(あな)を穿(うが)ち、皆(みな)自ら首をかき斬って、これに従(したが)って下泉(かせん)した。

高帝聞之乃大驚大田橫之客皆賢

漢高帝劉邦はこれを聞き、すなわち、大田横の賓客は皆(みな)賢人だと大いに驚(おどろ)いた。

吾聞其餘尚五百人在海中使使召之

吾(われ)はその残りが尚(なお)五百人、海の中にいると聞く、と。使者をつかわしこれを召(め)し寄せさせた。

至則聞田橫死亦皆自殺

至ってすぐに田横の死を聞き、また皆(みな)自殺した。

於是乃知田橫兄弟能得士也

ここに於いて、すなわち、田横の兄弟は士(し)を得ることがりっぱにできていたのだと知ったのである。

何故これ程多くの殉死者が出たか、劉邦が言うように、田横の兄弟は、士を得ることが立派にできていた、そうしうる人物だった、香乱記のきっかけはこの辺りの既述なのでしょうね
今見返しても非常にショッキングなシーンですが、、何故見落していたんだろう?



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