2019年1月9日水曜日

昨日のスレイマンつながりで、オスマン帝国の成り立ちについて、ティムール帝国との、アンカラの戦いとバヤズィト1世の死による、オスマン帝国の一時的な衰退。オスマン帝国を再統一したメフメト1世について。露土戦争におけるロシア軍の稀世の指揮官、スヴォーロフについて。ゴーン氏が日産の「大恩人」なんて、寝ぼけたことを言っているジャーナリストには反吐がでそうだ。

今朝も微妙に冷え込みは厳しくなく、外気温計は3~4℃くらい。
午前中からお昼ちょいまで、天気は良いお天気でした。
風邪は少しあって冷たい風でしたが。午後は雲が広がり、曇りました。

日産のゴーン氏の問題が長引いています。
日産や、特捜部に勝ち目がないと思う点は以前書きました。
自動車じゃーナリストのブログを読んでいて、ゴーン氏が日産の「大恩人」と書いているのが、気になりました。
また、寝ぼけたことを言っているなあ。と。
ゴーン氏がボランティアで日産を立て直したなら恩人と言ってもいいでしょうけど、彼も結局雇われ社長です。そんな人になんで恩を感じなければならないのでしょう。
こういったものの見方が、そもそも、古臭い、日本人特有の感覚でしょう。日本人がどれほど恩に感じたところで、ゴーン氏は別に義理に感じてくれることはないでしょう。
所詮、ある程度、高額な給料(報酬)の分ゴーン氏は働いて、今の日産の姿にしたに過ぎない、。
彼が、GTRやフェアレディZを復活させた、なんて、恩着せがましいこと言うのは間違っています。
ゴーン氏は仕事に必要だからそうしたに過ぎない。
仮に、恩を感じるならば、彼を起用した志賀氏あたりを褒めるべきだと思います。
こと、ゴーン氏をちやほやするジャーナリストがいるから、彼も勘違いして慢心してこの結果を招いたんだと思いますね。
あんな雇われ社長の実績なんて、相応の報酬があったんだから、ドライに接してていいのです。
名声なんて、余計なお世話ですよ。特にその手法は日本式じゃないし、すべての人がハッピーになったわけでもない。
経営者として、新たな価値を創造する、と言う点においてはゴーン氏はなんら評価に値しない人だと考えます。
まだ、日本電産の永守さんとか、トヨタの社長のほうが、世界に誇れる社長なのではないか?と思います。



昨日も書いたように、ロシアの時代劇ドラマ、「エカチェリーナ2世」は終わってしまいました。
ドラマ「エカチェリーナ2世」の終盤は露土戦争に入りかけていました。18世紀末のことです。

(エカチェリーナ2世)

エカチェリーナ2世がトルコに向けて宣戦布告するシーンがあります。
露土の「土」はトルコのことですがトルコと言うのはオスマン帝国です。エカチェリーナ2世の時代、北の強大国と、アジア~ヨーロッパの強国オスマン帝国は同じ国境をもつ隣国同士でした。
なので、露土戦争と言う名前の戦争はいくつもあります。Wikipediaをみると16世紀初頭から20世紀初頭まで、400年間にかけて、12回も、あきもせあきもせず、やっています。
人の命を何だと思っているんだ。

このドラマで、エカチェリーナ2世が宣戦布告した露土戦争は日本では「第一次ロシア・トルコ(露土)戦争」と呼ぶのが一般的らしいです。
実際の宣戦布告はオスマン帝国側からのようですが。
ドラマには、ロシア軍の指揮官として名将スヴォーロフが出てきます。
1774年4月、スヴォーロフはバルカン半島に侵攻し、6月20日、コズルドジで8,000名の軍で40,000名のオスマン軍を撃破しているシーンが出てきま。エカチェリーナの愛人、ポチョムキンもこの戦いで活躍しています。(ドラマでは)
スヴォーロフの活躍で、この戦いでロシアが勝利して、クリミア半島を手に入れます。
スヴォーロフはロシア帝国の最後の大元帥。不敗の指揮官として世界史的にもかなり有名。

その戦い方は日本人の目で見ると、源義経の戦い方に似ています。彼の戦い方は機動と速攻、奇襲にありました。

Wikipediaで見ると、スヴォーロフは著書の中で「戦争において金銭は尊い。人命はより尊い。それよりもなお時間は尊い」と述べています。蓋し名言。

昨日のブログに上げた、トルコのオスマン帝国は16世紀に現れたスレイマン大帝が西に東に、あっちこっち外征し、その外政がことごとく成功し、その領土を最大にします。スヴォーロフ並みに、スレイマンすげー。

(スレイマン大帝)

スレイマンはその立場でいえば、有数な戦略家、と言えますが、これまた有数な戦術家と言っていい。彼の代で、オスマン帝国の領地は最大になり、後の露土戦争のきっかけになるロシアと国境を接するようになるのです。まだスレイマンの時代ではロマノフ王朝どころか、ロシア王国すらない。モスクワ大公国。露土戦争の最初がこのスレイマン大帝の時代に起こります。この時代に、モスクワ大公国からロシアツァーリ国に国名が変わります。ツァーリがイヴァン4世。ロシアツァーリ国がロシア帝国になるのは18世紀初頭。ピョートル1世(大帝)の時代。

しかし、オスマン帝国の成長は最初から順調だったわけではありません。
オスマンのオスマンは英語で書くとOttoman 元はトルコ系遊牧民のオスマン家という、アナトリア半島の片田舎にいた遊牧民の一部族です。
彼らが現れるちょっと前まで、世界史はモンゴル帝国を中心にしたものでしたが、モンゴル帝国が東西で衰退し、西ではオスマン帝国が勃興します。東は元が滅んで明国が立つ。

オスマン帝国の成長に伴い、当時の世界史はオスマン帝国が中心になっていると言って良いです。
世界史の教科書的な説明によればオスマン帝国は1300年から1922年まで続いた、いうのが正式な見解。
最初から順調ではない、と書いたのは、初期はアナトリア半島を制覇し、西に広がり、第4代皇帝スルタンのバヤズィト1世の時代、バルカン半島を手に入れ、ハンガリー方面に進み、ヨーロッパ連合軍(十字軍)をニコポリスで破ります。ヨーロッパはこの事態に震撼。

(バヤズィト1世)

しかし、当時、アナトリアの東方、中央アジア、現在のイランよりも東、ウズベキスタンとかあるところではチンギスハンの子孫を自称するティムールが現れます。彼も、これまた戦えばかならず勝利する、という人物。でした、。

(ティムール)

結果ティムール帝国が成立。このティムール帝国が西に拡がるとオスマン帝国とぶつかり、アナトリアの現在のアンカラでぶつかり、アンカラの戦いが起こります。15世紀初頭の1402年。オスマン帝国は丁度、バルカン半島の完全制覇の仕上げに、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略するべく包囲していたところでした。
この戦いで、時のオスマン帝国の皇帝スルタンのバヤズィト1世はなんとティムール軍に囚われて捕虜になります。バヤズィト1世は捕虜になったまま、翌年の1403年、病死。サマルカンドに移送の途上だったらしく、釈放のため交渉されていた最中のことだったようです。
オスマン帝国はバヤズィト1世の死後、彼の4人の子供によって分裂し、10年くらい内戦状態になります。その内戦を戦い勝ち残ったのが
メフメト1世です。メフメト1世は長兄のスレイマンがバルカン半島を抑えていたところへ弟の一人ムーサーを送り込みムーサーとスレイマンが潰しあう中、スレイマンは戦死、ムーサーは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と手を結んだメフメト1世との闘いで敗れ囚われ殺されます。(1413年)これによって、メフメト1世は勝ち残り、オスマン帝国を復興させます。
(メフメト1世)

メフメト1世の時代はオスマン帝国は目立った外征をしていません。
国内の安定があってこその外征、当時オスマン帝国は、兄弟同士の内戦を終え、ティムールとの闘いの余波が残って内乱が続き、外征できるようなそんな時期ではありませんでした。ヴェネツィア共和国と、コンスタンティノープルに近い、ガリポリの海で、海戦を行って(1416年)、一応辛くも、勝利しています。ヴェネツィア側が司令官が戦死したため撤退しました。この時代のヴェネツィア共和国は司令官になる階級の貴族が、率先して命を張って戦いに臨んでいました。
塩野さんの本を読むと、そのあたり詳しく書いていますので理解できます。





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