2019年3月25日月曜日

今朝はおおむね晴れ。肌寒い朝。気温2~3℃ 大友家臣団 春先の夜空、シリウスに向かって飛べ(映画「風の谷のナウシカ」のセリフ)、の考察。会社付近の桜(ソメイヨシノ)は2~3分咲き。来週末頃が見頃。

今朝はおおむね晴れていましたが、薄雲が拡がっているようで月がぼやけて見えました。
が、肌寒く、油断できません。気温2~3℃でした。

いよいよ、3月も最終週。
昼散歩した会社の周辺の桜は(ソメイヨシノ)は2~3分咲き。来週末頃が見頃。曇っていました。
午後帰宅途中、あめがぽつりぽつり。明日は晴れそうです。

昨晩、買い物に出かけついでの散歩したんですが。3月末の夜空はまだ冬の星座で、賑やかです。夜19時頃は、南60度くらいの高さにオリオン。少し視線を右にずらすと、おうし座の一党制アルデバラン。もうすこし右にいくとぼやっとした星の集まりが見えます。これはスバル。プレアデス星団。
おうし座の上に5角形に並んだ星座が見えます。これはぎょしゃ座、おうし座のさらに右(西側)にはクジラ座があります。
オリオンの左(東)側の少し下南に見える明るい一等星が見えます。おおいぬ座のシリウス。
高さ的には45度くらいにありますね。

昔、アニメの映画の「風の谷のナウシカ」で、王虫の幼生をさらって大海嘯の流れを風の谷に向けるべく飛ぶペジテの飛行甕に向かって、ナウシカやミトが乗った風の谷のガンシップが飛行甕に向かう際にナウシカのセリフ
「ミト、シリウスに向かって飛べ」とあります。

シリウスって、そんな低くないやん。



それとも、まだ東の空に昇りかけた時間?
あの、場面設定の季節は分かりませんが、直前、風の谷に、トルメキア軍が進駐している時期はブドウが実をつけているので、夏から秋にかけてと、予想されます。


その時期の夜(夜中前)、確かに、シリウスはまだ東の空に低いです。夜半を超えてくると、たかくなってきてしまうので、
ガンシップが水平飛行をしながら、その先にシリウスは見えてこない。

が、ここで、この場所、風の谷の地球上での緯度が関係してきます。
もし、高緯度の場所であるなら、シリウスは南の空低くなってくる可能性あります。

ま、買い物帰りの散歩の途中、星を見ながらこんなことを考えています。



年度末。
今週末には次の元号が発表されるらしいです。西暦末尾9年で新元号元年と言うのは換算しにくいですね。
こういうことがあると、元号なんてなくしてしまえばいいのに、と思っています。

さて、大分県出身の歴史好きとしては大友氏関連の本というのはほぼ、脊髄反射で手に取って見てしまうのですが、
昨日、図書館で借りた、赤神 諒氏の「二階崩れ」をさんざんにこきおろしました。

大友家の家臣と言うのは、同時期の他所の家臣団と決定的に違う点が一つあります。
宗麟、さらにその先代の義鑑くらいまで、こういった血縁、非血縁の家臣の相克が強かったのです。
戦国大名化する際の大きな障害になっています。
赤神さんの「二階崩れ」の本ではあまり話題にはなっていませんでしたが、
この時代の大友家の出来事を考える上で「同紋、他紋」の概念は重要です。


同時期の戦国大名の家臣団と言うのは、例えば、武田家、大内家でいえば、血縁家臣がメインです。
武田家は、その起こりは古いのですが、鎌倉期以前から甲斐の国(今の山梨)に来た源氏の一族が発祥です。
常陸の国(茨城県)に武田の荘があり、そこから出た源氏が武田氏を名乗って始まっています。
常陸の国から連れてきた郎党も居ますが、甲斐の国に移って以降、鎌倉期、室町期を通じて武田氏は栄える一方で、内部抗争も発生します。
栄える段階で、同じ武田と言う苗字では都合が悪くなり、ある土地を領地にした武田一族はその土地の名前を新たな姓にします。
穴山、飯富、甘利、秋山、板垣氏がそうです。武田氏庶流、(つまり血縁)と言う言われ方をします。
大内氏も庶流出身の家臣が有力になっています。陶氏、右田氏、問田氏、
大内氏の出身は珍しく、朝鮮半島の百済の聖王の後裔を自称しています。日本での姓氏でありがちな源平藤橘の出身ではないです。

こういった渡来人系の戦国武将は珍しい。です。西日本特有かもしれません。
中国地方でも九州に近い地域で栄えた氏族、という地域柄でしょう。
その九州にも渡来系の姓氏は多く、筑前(今の福岡県)の秋月の秋月氏、原田氏、は大蔵氏です。
大蔵氏は、古く、平安のさらに前、壬申の乱で活躍した大蔵氏の末裔で、この大蔵氏は東漢氏(やまとのあやうじ)(=倭漢氏)大蔵氏以外に秦氏もそうです。後漢末期の三国志に出てくる霊帝(黄巾賊が活躍したときの皇帝)の末裔、と称しています。


さて、大友家臣団はこういった鎌倉期以降の血族系の家臣(譜代)と、上記のような渡来系の土地に根差した地縁系の家臣(外様といってもいい)で構成されています。
もちろん、武田氏、大内氏にも血縁系以外の地縁系家臣はいますが。地縁というより、新規家臣
また、16世紀末の戦国時代の100年ほど前に、日本中、どこでもそうであった、南北朝の争いで、家を二分する争いを経ています。
このなかで、血縁系家臣が一旦断絶して、地縁系の家臣を再構成するという動きがどこの大名小名でありました。
大友の豊後では、渡来系の地縁豪族は隣の豊前、筑前ほどではないにしても、鎌倉期前期で平家方として活躍した大神氏系の氏族、特に緒方氏系の地縁氏族が根強く。
そもそも、大友氏が鎌倉初期に、相模から移ってきた、外様だったので、そこから大友家臣団に組み込まれた地縁系の非血縁系家臣としての成長があります。
大友家臣団でいえば、血縁系の譜代家臣をわざわざ「同紋衆」地縁系の非血縁家臣を「他紋衆」と呼び、隔てています。
(こういう呼び方であえて、二分するようなことは他所の家臣団であまり見られません)
呼ばないだけで、扱いはあったかもしれません。

江戸初期の「譜代」「外様」よんでいるのに似ています。
他紋衆は、先ほど書いたように、豊後の国、土着の大神氏、緒方氏系の豪族が多く、これにあたります。
佐伯氏、臼杵氏、が大友家臣団では有名。小原氏も大神系の他紋衆。
戸次氏も元は大神氏ですが、大友氏が取り込むために大友姓の人物を養子で送りこんで、同紋衆化しています。
戦国期はこういった養子縁組、結婚を通じて、同族化を図ることが日常茶飯事でした。

毛利家による、吉川家、小早川家乗っ取りはまさにこの動き。
さらにとなりの宍戸家に毛利三兄弟の同母姉、姫を送って宍戸隆家を婿にして、同族化しています。

来年、大河の主人公の明智光秀が織田信長の九州征討の前に。九州の名族の姓名の「惟任」を名乗らせて、いますが、惟任は大神氏系列の姓です。
同様に、丹羽長秀は大神系の「惟住」を与えられています。
塙直政は。上でも出てきた大蔵氏系の原田姓を与えられて、原田直政と変えています。


現在有名な大友家家臣団はほぼ、義鑑が育て上げています。
有名な宗麟は、ほぼ父と矢が育てた家臣と言う財産で、成り上がったと言っていいです。
義鑑はその父親義長(とさらに祖父親治)が義長の代で南北朝の混乱にケリをつけてくれたおかげで、大友家を戦国大名化することができたと言っていいです。
そのため、義鑑の代で、その後、宗麟の時代に活躍する武将を育てることが出来ています。
義鑑が晩年、妾に産ませた子供に無理やり家督を譲るような動き(二階崩れ)がなければ、大友氏によって九州統一も夢ではなかったと思われるのですが。

 義鑑に育てられた大友家臣団の名将の超個人的な、人物評

以下の5人は家老クラス

吉岡長増(宗歓):(長は義鑑の父義長の偏諱) 大友にこの人ありの筆頭。外交、内政で活躍。
戸次鑑連(立花道雪):大友にこのひとありの次点。鬼道雪で有名。遠く甲斐の国から、武田信玄に面会したいと言わせた。
臼杵長景、鑑速:長景は鑑速の兄。臼杵兄弟は外交で活躍。
小原鑑元:武の人らしい。有力な他紋衆で後に反乱を起こし、肥後の南関に立てこもる。
吉弘鑑理:赤神さんの「二階崩れ」ではさんざんな描かれ方をされた主人公の一人。史実的には正反対。知勇兼備とよく言われるが、文武にバランスが取れている、何せ忠義において、この一族の右に出る人は無し、の吉弘一族。の惣領。肥前戦線ではいまいち。竜造寺隆信を嘆かせているという史実はあるので、人を見る目はものすごく確かで、外交面でも、渋い役回りで活躍していたはず。

以下は有力武将クラス。
一万田鑑実:一万田家は大友庶流の名族。観桜会を開いていたりと文の武将に見えるが毛利との多々良浜の戦い、耳川の殿軍の活躍をみると、文一辺倒ではなさそう。
二階崩れの3年後、宗麟によって父や叔父を誅殺されながらも、恨み言を言わず、宗麟に仕えている。忍の人。そのせいか地味。
志賀親守:(親は義鑑の祖父親治の偏諱):大友家中で志賀家一族は直入郡や久住の裾野近辺を勢力とした大友一族です。大友家の3大支賊の一つ。
残り二つは国東の田原氏、の一つは大野郡の詫間氏、詫間氏は肥後にも所領を得て、肥後でも栄えます・
田北鑑生:田北氏も大友庶流。豊後の国特有の苗字です。直入郡に所領を得て、大友家の家臣として頭角を示します。有名ななのはこの鑑生、結構あちこちの戦で顔を出します。
武の人。
勢場が原の戦いでも、緒戦の敗色を取り戻したのは、主力の大将吉弘氏直の討ち死にに動揺せず、立石方面に布陣して別動隊を率いた田北鑑生の采配によって挽回したことが大きい。
また後世耳川の戦いの発端になったのは鑑生の末弟、田北鎮周の、突っ走りによって、島津得意の釣り野伏せの死の淵の中に大友全軍を引き込み、敗北します。
鑑生は戦場の土壇場でも冷静さを失わない、ベテランの渋みを感じさせる、武将ですが、末弟はむしろ、その正反対の活躍しか出来ていないのは、歴史の皮肉。
利光鑑教(宗魚):若いころの活躍は一切分からないのですが、晩年、豊薩戦争のおりに、居城の鶴崎城に攻めてきた2万の島津軍(大将:島津家久)を相手に、居城の鶴崎城に籠って善戦します。
流れ弾に当たって死にますが、彼の奥さんがまたすごく有名な人で、夫「宗魚」の戦死を伏せ家中を率いて戦い、島津の攻勢を凌いだ女武将。実は、立花道雪こと戸次鑑連の妹。
角隈 石宗:この人、超謎。現在の由布のあたりに角隈の地名がある模様です、角隈性の人が分布するようなので、由布当たりの出身でしょうか。
中国三国時代の謀士、賈 詡のようなイメージ
佐伯氏は入っていませんが、義鑑が育てた人は佐伯氏には。。。いないようにおもうんですけど。

私は大分佐伯出身ですが、大友家臣ではやはり、吉弘鑑理、一押し。
もし、今生きていたら一番知り合いになりたい人。

これだけの武将を取り立てて育てた。大友義鑑の評価は現在さほどではありませんが、どうしても二階崩れですべてを失っていますからね。その前までは、相当評価が高くても良いはずの人物だと思うんです。


スマートICの話は持ち越し。










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