2019年3月26日火曜日

今朝は曇っていましたが予報では一日晴れ。今日は大友の当主伝

今朝は曇っていましたが予報では一日晴れだったので洗濯して干して出勤。
昼の散歩では会社付近の桜が一段と開花を増やしていました。

散歩で道端を歩いていたら、生垣の中から驚いて躍り出たスズメが2羽、生垣の先にある金属製の門柱に激しく体当たりしてぶつかっているのに出くわして、
見ているこっちがしばし茫然。。。


昨日、大友家を語るうえで重要な当主を3代紹介しました。
義鑑、そのまえの義長、その前の親治。

義鑑はその父親義長(とさらに祖父親治)が義長の代で南北朝の混乱にケリをつけてくれたおかげで、大友家を戦国大名化することができたと言っていいです。
そのため、義鑑の代で、その後、宗麟の時代に活躍する武将を育てることが出来ています。
義鑑が晩年、妾に産ませた子供に無理やり家督を譲るような動き(二階崩れ)がなければ、大友氏によって九州統一も夢ではなかったと思われるのですが。

この3代があるからこその戦国時代の大友の隆盛、鬼道雪、宗麟、高橋紹運、の名将があった、といっても過言ではありません。
今回も予定を変えて(苦笑)、その大友家の当主について、語ります。

大友の当主伝。

昨日、上のように書きましたが、戦国時代の大友家を作ったのがその以前3代の当主の功績が著しいので大友一族の話を載せます。
自分が大分出身、ということもあるかもしれませんが、その発端はもともと、肥後の菊池家の南北朝期以降を調べていくうちに、かかわりの深い大友家を調べる機会があったのです。

豊後大友家は鎌倉期に、頼朝のお気に入りだった相模の大友郷の豪族(元は古庄氏)が、九州の守護に命じられて下向して土着したことがきっかけです。この辺りはどこの戦国大名でも似たようなものです。ただ、特に功績らしいものが見当たらない。単に頼朝のお気に入りだった、というだけで成り上がっています。

その後、南北朝時代に、家が二手に分かれて、当主を交互に出す、というねじれた混乱状態にあり、そのことが切っ掛けで紛争や、他国の干渉を受け戦乱が起こりやすい次期が続きました。

8代当主大友 氏時の子、長男が南朝方の9代当主大友氏継、次男が北朝方の10代当主大友 親世、9代氏継の子11代当主大友親著、10代親世の子が12代大友持直、11代大友親著の子13代大友親綱。
と言う風に、氏継の系統と親世の系統が交互に跡を継いでいました。
親綱の次14代は持直の子が継ぐ順番ですが、持直が、幕府から追討を受けたため、持直の弟、親隆(結局親世系)が継ぎます。親隆の後15代は氏継系の先代親綱の弟親繁に譲ります。
親繁は先代、親隆の娘を妻にして、ようやく、両統が統一されます。この親繁の子が16代(18代)大友親治で(母親は親隆の娘ではない)

親治はそれまでの豊後の混乱を治めたので、名君といっていいです。
直前のダメ親父政親が膿をだしきった、ともいえる。
実はさきほど16代(18代)と書いた親治の兄の親繁長男の政親が16代、その子義右が17代です。
大友政親の時代は丁度応仁の乱の影響で大内による干渉が激しく、大内との戦が続き、あろうことか、豊後から博多の大内領攻撃に向かった船が遭難し流れて長門に流れ着いて、大内義興に斬られる、という失態を演じます。
その子義右はこの直前、病を得て亡くなり、父親政親がその後を継ぎ、16代(17代)政親の跡を、
政親の弟の親治が18代当主として継ぎます。

親治とその子義長、そして義鑑と3代続けて、ほぼ名君といっていい当主が続きましたので、
この時期に豊後の力は充実します。
家臣も大友庶流で大友家を凌ぐ力をもった国東の大族田原家を除き、名臣が数多く現れます。
義鑑の子、大友宗麟が、大友家の大名として、有名ですが、
その前三代の遺産(国力の充実、家臣の育成)が多大だったことが大きく影響しています。

これがあったので、宗麟がふぬけで、家臣の妻に手を出すといった、人倫の道を踏み外しても。大友家の屋台骨がすぐに揺らぐことはありませんでした。
この3代の間、豊後国内で、めだった混乱や紛争が無かったせいで、非常に平和な時期が流れていき、豊後の民が大友家によくなびきました。
大聖院宗心の乱はありましたが。(大内氏や幕府が仕掛けた大友家の内輪もめで宗心自身はその気がなかった 宗心は13代親綱の子で15代親繁の末弟、氏継系)
3代の始祖親治が長命だったことも大きい。享年63歳

しかし、その子義長は大友家随一といっていい名君ですが、短命でした。
義長の子義鑑は祖父の親治の後見をうけて善政を継続します。
この恩恵を知っていたのか、島津は豊後攻めは九州討伐の最後に回さざるを得なかった。
ただこの間、豊後の根幹の問題、同紋衆と他紋衆の相克問題は解決を見ず、宗麟の時代に持ち越されます。
むしろ、宗麟の父、義鑑は他紋衆を厚く用いる傾向があったので、人を見る目や。扱いがうまかったのは宗麟よりも義鑑のほうです。


宗麟は西洋の文化を取り入れて豊後を日本を代表する町にした功績はありますが、それのみで、彼の事績を調べるほど、宗教(キリスト教)に傾倒しすぎ、それ以前の文化、寺社勢力を破壊し、家臣の妻に懸想するのみか、力づくで横取りするといった、恐ろしく欲深く、さらにその自己の欲を制御できない人間として非常にダメな人物にしか見えません。


現代に大友宗麟が居たら、宗教マニアの女好き、オウムの麻原彰晃みたいになっていたのではないかと、思われます。

昨日は日経平均は世界景気減速不安という、先週末下げたNYの影響で下げていました。
今日はその反動で大きく上げていました。
持ち銘柄の一つ(SBI)が目標株価(2500)に達していました。売り注文出していなかったよ。
明日以降、もう少し売値を切り上げてみようかな。と欲を出すと、たいていダメな時が多い。
ただ下げても一日で戻すのは相場が強い感じがします。
アメリカ次第、という危うさが多分にありますが。






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