2019年3月30日土曜日

昨晩は会社の歓送会。赤神諒氏の「大友二階崩れ」の後、「大友落月記」の感想。

昨晩は会社の歓送会がありました。
帰宅したのは日にちが変わって零時半。
年度が替わるこの時期はこういう会は多いのでしょうか。
来月には、定年を迎えられた方を送る会があります。
昨日朝は薄曇りで気温高め12~3℃。会社には半袖の上に社服のジャージを羽織って出勤。
もう、この先一桁になりませぬように。。。といっているこの週末よりさきは少し冷えるそうです。
午後帰宅時は外気温計20~21度。今年初、車で冷房を付けました。

先週の21日に図書館で借りた、赤神諒氏の「大友二階崩れ」の後、「大友落月記」を読んでいます。ほぼ終盤。
二階崩れは、大友氏の世代交代時の有名な歴史上イベントを扱っています。二階崩れで黒幕が誰であったのかは現在でも議論があり、定説はありません。
交代の主、大友宗麟自身が絡んでいたのかすら謎になっています。この「二階崩れ」でも首謀者はあいまいにして、先代に義を通す主人公吉弘鑑理の苦悩を描いています。
実際は、吉弘鑑理は苦悩を背負う立場にありませんが、そこはフィクションです。

落月記では、これまた大友氏の歴史上のイベント弘治2年(1556年)5月に起こった姓氏対立事件を扱っています。が、こちらも、史実に基づいた、超がつくフィクションです。
作品としては前作同様、軽薄な印象は否めません。かといって、リズムが良いわけではなく、人物のとらえ方も、軽薄で底が浅い。史実を無視しているので、共感も出てこないし、人物間の絡み方も、設定に無理がありすぎる。

先日大友君主伝で振れたように、大友氏の家中には大友家に血がつながり、大友の家紋を使用できる同紋衆、もともと土着の豪族から大友家に取り立てられた他紋衆があり、この同他の争いが、古くから続いています。鑑理の時代、享禄3年(1530年)に「賀来騒動」、と言う事件も起きています。
弘治2年(1556年)5月に起こった姓氏対立事件では、大友家の他紋衆の有力者にして、肥後のとりまとめをしていた、小原鑑元が肥後の南関で挙兵。他紋衆の他の豪族は豊後府内で挙兵。宗麟は一時、臼杵の丹生島に避難するほど混乱になります。
この事件は実はその詳細はそれほど明らかではありません。
落月記では小原鑑元はたいそうな好漢に描かれかれていて、肥後の統治に心を砕き、肥後の領民から慕われています。
大友家の家中では、宗麟の側近、田原親賢(作中では専ら田原民部)と、大友家で専横を極める田原宗亀の権力闘争が熾烈になってこの争いが縦糸になって。
民部親賢の小者感を強調して、後世の石田三成のような、才覚はあるものの人徳の薄い人物として描かれており、民部に踊らされて宗亀を討つために挙兵した小原鑑元が悲劇の武将になっています。小原鑑元の娘に恋し、好漢の小原と共にする時間が長くなる分、鑑元に惚れる、前作主人公吉弘鑑理の息子、賀兵衛、鎮信が前作の父親同様、悩乱する凡庸な武将として描かれています。吉弘家を取り巻く作者の構図はほぼ同じ。
豊後の国から、肥後に渡り、独立を思う武将は、小原鑑元が初めてではありません。
大友家は隣国、肥後掌握を狙ったのは、宗麟の祖父義長の時代から大いに動きとしてはありました。このため義長は息子の一人を肥後の名族菊池氏の跡継ぎにします。
これが菊池義武。義鑑の弟、宗麟の叔父。
ですが、義武は肥後の菊池家家中の家臣があまりに独立心旺盛で義武自身の求心力のなさもあったでしょうが、菊池家をまとめることができず、最後は挙兵し、大友家の統制を離れようとします。
肥後には他国からくると、居心地の良さのようなものがあって、さらに豊かな環境、肥後は昔の国制区分でいうと、大国とされています。
物なりがよく、豊かであるが故です。
作中、小原鑑元は大友家の武将では武力では戸次鑑連に次ぐナンバー2とされています。
そのナンバー2が史実では挙兵こそしたものの、あっさり城に火をかけられて、討ち死にしています。武断派、と言う位置づけは史実通りですが、ナンバー2、というのはややもち上げすぎ。でしょうね。
まだ終盤読んでいる最中ですが、終わり方が気になります。この事件では肥後、豊後国内に同時に兵乱が起こっているので、肥後で挙兵したのが、ナンバー2の小原鑑元であると、この鎮圧は並の方法ではほぼ不可能。
ただ、史実では他紋衆の実力筆頭、佐伯氏は挙兵に加担せず、当主惟教は海の男らしく、伊予に向かって豊後を去ります。
これが、恐らく史実上、大友家の同紋衆の兵力を肥後に集中することができた一番の理由、
他紋衆がまとまることができなかったために、肥後の小原氏がやすやすと敗北した理由となるでしょう。
佐伯氏はしばらく後、毛利氏との争いが熾烈になり、宗麟自ら惟教を招いて、帰参します。
落月記で前作の吉弘家や鑑理の扱い同様全く納得できないのが、宗亀の立ち位置です。
作中でも、宗家をしのぐほどの勢いがあるように描かれて、最終的に民部の思惑をはずれ宗麟自ら宗亀側について、民部による、宗亀追い落としが失敗し、小原鑑元がはしごを外されてしまう形になります。
史実で、宗麟や大友宗家の人間にとって、同紋衆筆頭の意実力者といえど、田原宗亀と、大友宗家があの段階で手を結ぶ、ことはあり得ない。作中でも書いてありますが、
宗麟の祖父、義長が、亡くなる間際、それまで8度も大友宗家に背いた田原家に心せよ、と言残しています。宗亀も義鑑が二階崩れで亡くなる7年前の天文12年(1543年)には義鑑から豊後を追放されて、二階崩れの変後、帰参がかなっています。一度は失脚しています。そういう史実を見ると、裏で大きく動いて、吉弘鑑理を掌のうちで扱うような描かれかたをしていた前作のあつかいには奇妙なものを感じます。
同様に、宗家からそれだけ警戒されていた宗亀が、民部の企みを覆した結果、小原鑑元が肥後で挙兵するという筋書きは納得がいかないものを感じます。
むしろ、弘治2年(1556年)当時、大友家が割れて喜ぶのは、一時、大内氏の元に逃げていた宗亀のほう。
この事件の前年には大内家では、陶晴賢が厳島の戦いで毛利に敗れるという、いわば誰も思いつかない、珍事が発生して混乱の最中にあります。
豊後を取り巻く状況下で、他国から侵略される危機が最も低い状況にあったことは確かです。
最もうなづける描かれ方をされていたのは、民部の義兄、大友家当主、宗麟。欲が深く、美しいものに目がない、と言う性格付けは、宗麟自身をもっともよく描いています。
宗麟がダメ武将なため、そういったステレオタイプに立たせると描きやすいんでしょうね。

さらに、その欲を利用して、家臣の一部にむほんを起こさせて、勢力を潰す、という筋書きは、当時の大友家ではありがちな事件の発端です。
宗麟が家臣の妻を奪う、服部右京亮の事件然り、この服部右京亮の妻は実は民部の姉。この事件では服部と共に、一萬田鑑相(親実)鑑実の父)と宗像鑑久(鑑相の弟)が誅罰されて殺されます。この一万田一族の悲劇、作中で武力では3本柱の一人として名のみ上がる高橋鑑種も一万田鑑相の弟。

一万田家は鑑相の子、鑑実のもとまとまって、一族全滅だけは免れます。
しかし、後世、鑑実は宗麟の子義統から自害を命じられて自刃するはめに陥ります。
義鑑までの当主が優秀でしたが、宗麟以降、ダメ当主が続いてしまい、それまでの遺産で一時九州北部に覇を唱えることができたのですが、一時の間だけでした。


もう少し、大友家について、骨のある描き方をしている作品を読みたい。

この作品で、臼杵氏や志賀氏、田北氏が出てきますが、この辺の主要人物にももっと、設定を加えて、生かしてあげるといいのに、と思いましたね。

そして肥後の場面、作者は、肥後には来たことがないように思われる描写が目立ちます。
歴史を扱う本を書くなら、もっと実地にいって、その空気を伝える者でなければ、描写が雑で稚拙になりがち。目の前に迫ってくる感じが一切しない。
肥後と豊後の空気の違いを描く絶好のお膳立ての作品ですのに、もったいない。
自分も熊本北部は、玉名、とその北の山鹿、かつて城氏の支配地くらいまででした。
大津山、南関はまだ踏み入れていませんでした。近いうちに行ってみよう。

大津山、南関の地域が豊かなのは、何も、小原鑑元が心血を注いだせいではありません。
史上、お米がとれる地域は、現在と異なり、当時は平野部は生産性が悪く、むしろ山間部のほうが物なりが良かったのです。肥後でも、菊池盆地のような平野部より、山鹿や、玉名北部和水あたりの山間のほうが米の生産高は高く、益城の山間部が最も石高が高いエリアでした。
当時の有力者が平地よりも山間部から出やすいのは、山間、丘陵部のコメの生産性が高く、人口も当然多いことが理由です。

戦国期、益城郡は阿蘇氏の社領となっているところが広くありますが、このため阿蘇氏は大変に裕福でしたが、裕福がゆえに、内部抗争が起こりやすい。















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